アイディエーティングという位置どり

最近、企業コンセプトや広告コンセプトの〈アイディエーティング〉の機会がとみに増えてきた。ぼくが発案したこのアイディエーティングとは、企画のためのアイデアを提供するコンサルティングの一種である。依頼主の企業規模も業種も問わない。念入りな調査もおこなわない。依頼されてから一週間か半月以内に顔合わせをし、事前に提示された課題について半日をかけて集中的議論と二次記憶の棚卸しをおこない、その場でアイデアとアイデアを触発させる。深慮遠謀せず、少々軽薄気味であっても量を求めることを主眼とする。意思決定を急ぎ、いちはやく全体構想を俯瞰する。このプロセスでは日常生活感覚、雑学、賢慮、良識、想像力、それにほどほどの企画ノウハウが求められる。

時間をかけて調査をおこない論理的に精度を高めたつもりが、肝心のアイデアが出なければ話にならない。また、アイデアというものは必ずしもそのようなプロセスを経て醸成されるものでもない。むしろ、集中と脱線、統合と分解、論理とアバウト、ことばとイメージ、ねらいとハプニングなど、相反する作業や精神作用によってアイデアはおびただしく頻繁に生まれる。ある程度の知識と経験にたくましい想像力を融合させれば、〈偶察力セレンディピティ〉のご褒美にあずかることができるのだ。

依頼者の業界についてどれほど詳しいかはあまり重要ではない。常識的に少々知っておかねば箸にも棒にもかからないが、敢えてにわか知識を仕入れるには及ばない。こんなことをあけっぴろげに言うと、「餅は餅屋じゃないか。素人に餅はわからないだろう」と反発を食らう。これに対して「紺屋こうやの白袴」とか「医者の不養生」などと切り返す? いや、それには及ばない。実際のところ、業界を知るために当該業界の専門家である必然性などないのだ。マックス・ウェーバーが言うように、「シーザーを理解するのにシーザーである必要はない」のである(『経験の差は優位性とはかぎらない』参照)。


専門家が専門分野を因数分解するときの危うさを嫌というほど見てきた。餅は餅屋と過信しているかぎり、理解幻想の枠から抜け出すことができないのである。専門家が経験によって理解することと門外漢が想像によって認知することは本質的に異なっている。両者を優劣で計るのは適切ではないが、敢えて想像側から優位性を一点取り上げるなら、対象を対象のエリアだけで捉える経験に対して、対象をより広範な文脈で捉える可能性が大きいという点である。この一点において、いや、まさにこの一点においてのみ、業界の専門家はぼくのアイディエーティングに期待を寄せてくれる。

英国の宰相チャーチルは玄人はだしの絵筆の使い手であった。絵の達人チャーチルならわかってくれるだろうと、ある人物がこう切り出した。「一度も絵を描いたこともないくせに、ただ有名人というだけで美術展の審査員におさまっている連中がいます。これはおかしいですよね」。てっきり「もちろん」という返事をもらえると思っていたが、チャーチルは次のように言ってのけた。

「いや、別にかまわんじゃないか。私はまだタマゴを生んだことはないが、タマゴが腐っているかどうかくらいはちゃんとわかるからね」

ぼくの仕事はまさにこれなのである。依頼主とぼくが共同して考え抜いても、何が最善かはわからない。有力なアイデアや方向性を絞るところまでは到達できるが、その先は決断あるのみだ。しかし、依頼主が従来から独自で実施してきた企画案が功を奏していないこと、少なくともその案よりもすぐれたアイデアがありそうなことは即座にわかるのである。「あなたの業界に一歩も足を踏み入れたことはないし、商品を売ったこともないけれども、ぼくは現状よりも有効なアイデアを捻り出す自信があります。但し、それがベストであると自惚れているわけではありません」――これがアイディエーティングの根底にある姿勢である。対象と距離を置き、依頼主と消費者の中間に立つコンサルティングと言ってもよい。