一枚の絵(または写真)の行間

やや蒸し暑かったが、好天に恵まれた土曜日だった。京都国立近代美術館で開催中の『ローマ追想――19世紀写真と旅』を見に行った。常時カメラを携帯するわけでもなく、携帯電話のカメラ機能をよく使うこともない。それでも、ここぞという時には思い切り写真を撮る。デジタルカメラになってからは遠慮なくシャッターを押す。上手下手はともかく、カメラと写真についてはすでに30年以上も親しんできた。

しかし、写真とカメラの歴史には疎い。今回の写真展を通じて、ダゲレオタイプなどの写真の方式について少しは知るところとなった。ダゲレオタイプとは銀板写真のことで、銅の板にヨウ化銀を乗せたもの。ダゲールという人によって1839年に発明された。展示されていた写真は19世紀中葉のローマやヴェネツィアなどの光景だった。たとえばローマのポポロ広場にしてもコロッセオにしても、一目見れば今とさほど変わらない。何しろ歴史地区だから、最新高層ビルが建ったり都市のゼネコン的近代化がおこなわれたりはしない。但し、当時の写真とぼくが最近撮り収めた写真との間に、修復や植樹・道路整備などのささやかな変化を読み取ることはできる。

ところで、写真の発明と絵画の流派――写実主義や印象派――には無視できない相関関係があるとよく指摘される。写真が発明されるまで、ほとんどの肖像画は写実的に描かれていた。国王や伯爵がたくわえた髭は一本一本精細に捉えられた。また、女王や夫人や子女の豪華絢爛な衣装の皺や襞は本物そっくりに描かれ、レースには絶妙の透かしまでが入る。まさに、油絵は写真と同等の役割を果たしていたのである。そして、写真の発明とほぼ同時期から細密な描写が廃れ始め、やがて顔の判別もできなければ姿かたちも崩れていく。実体ではなく印象が描き出される。絵具が乱れ毛筆の跡が残る。絵画は写真でできる技法を捨てて、写真でできない世界へと入っていった。


写真展の後、御所近くの相国寺の承天閣美術館へと足を向けた。『柴田是真の漆×絵』なる展示会の招待券を持っていたからである。翌日曜日が最終日だったので、何とか滑り込みセーフ。若冲の襖絵も展示されているとあって、鑑賞に臨んだ次第だが、初めて見る是真の漆絵や盆、印籠、紙箱などに凝らされた細工の見事さに息を飲んだ。名作の大半が海外コレクションになっているので、ほとんどすべてが里帰りだ。その道の職人だろうか、単眼鏡を手に熱心に作品を鑑賞する人もいた。

「絵や写真の行間」と表現するとき、「行間」はもちろん比喩である。ここでの行間は、描かれていない心象や、描かれていても空間部分を感じ取らせる構図を意味する。動画はテーマや対象の仔細を順序制御的に映し出してくれるから、鑑賞する者はある程度受身で構えることができる。流せるという気楽さがどこかにある。しかし、一枚の絵もしくは一枚の写真は、本来の線的な動きのどこかを一瞬切り取って見せる。したがって、作者が描いたり撮ったりした作品の文脈はよくわからない。よくわからないからしばらく作品の前で佇むことになる。その佇んでいる時間は、行間を読み取って綜合的に鑑賞しようとする時間である。

とても疲れるのである。しかし、疲れると同時に、そのように感じ入ろうとする時間と空間に在ることが、絵を鑑賞する愉しみの大部分なのに違いない。呆れるほど感じ入って満悦する。あるいは、結局は何とも言えぬ「不明」に陥ってその場を去ることもある。ふと、陶淵明のことばを連想した。

「好讀書 不求甚解 毎有會意 欣然忘食」
(書をむを好めど、甚だしくは解するを求めず、意にかなふこと有る毎に、欣然きんぜんとして食を忘る)

「読書は好むものの、深くわかろうとせずに大雑把な理解で済ます。しかし、たまたま意に合った文章があれば、食事を忘れるほどに大いに楽しむ」という意味である。これは読書の様子だが、絵画鑑賞にもそのまま通じるように思われる。