口癖とワンパターン

白身フライ.jpg人は自分の口癖には気づきにくいが、他人の口癖には敏に反応する。過去、数え切れないほど耳にタコができてしまったのは「……の形の中で」という口癖。その男性の語りから「……の形の中で」を抜いて聞くと、ほとんど何も言っていないのに等しかった。出現頻度は10秒に一回くらいだった。

若い頃、説得表現力が未熟だったせいか、「絶対に」とよく言う自分の口癖に気づき、意識して使うのを控えるようにした。そんな意識をし始めると、今度は他人の口癖が耳に引っ掛かるようになる。そして、ついにと言うべきか、口癖の多い人たちのうちにいくつかの類型があることを発見した。

まず、次の言葉が見つからないときに、空白を作らないための「時間つなぎ」として使われるノイズがある。「あのう~」とか「ええっと」の類だ。ノイズなので、そこに意味はない。ぼくの知り合いに、「皆さん、あのう、今日は、あのう、お忙しい中、ええっと、この会場まで、あのう……」という調子で話す人がいる。本人は自分が話下手であることに気付いている。必死なのだが、適語がなかなか見つからない。「失語」しているのではなく、おそらく話の内容がしっかりと見えていないことからくる問題なのだろう。

二つ目は、決して話下手ではないが、脈絡がつながりにくくなったときに「要は」とか「やはり」とか「実は」で強引に筋を通そうとするケース。説得や説明を意識するあまり特定の言葉で調子をつけているのである。三つ目は、相手の話に調子を合わせるときに「なるほど」とか「でしょうね」とか「あるある」などのワンパターン表現を繰り返すケース。相手の話を左から右へ流しているだけなのだが、「聞いていますよ」という振りで共感のポーズを取る。


口癖は接続詞の機能も持つので、だいたい単語一つと相場が決まっている。ところが、マニュアル社会になって長文の「口癖」があちこちで聞かれるようになった。「お勘定は一万円からでよろしいでしょうか?」などもその一つで、もはや本人はその意味も噛みしめず、いや、その表現を使っていることにすら気づいていない。調子や相槌だけではなく、メッセージも口癖化しつつあるのだ。

過日、東京に出張した折、ホテルで朝食ビュッフェ会場に入って席を取った。丁重な立ち居振る舞いのホテルマンが会場の入り口に一人いて、客を迎え見送っている。ぼくはトレイを手に取り料理の品定めを始めた。サラダを皿に盛ってドレッシングをかけ、別の皿にスクランブルエッグとソーセージを取ってケチャップを添えた。白身魚のフライの前に来たとき、ふいにホテルマンが近づいてきて「白身フライにはそのウスターソースをスプーンでおかけください」と言うではないか。フライを盛った皿の横にウスターソースの入った器があり、スプーンが浸かっている。要するに、そのスプーンでウスターソースをすくってフライにかけろと言っているのだ。

とても奇異に思えた。ドレッシングもケチャップも同じことではないか。そのときには一言も発せず、なぜ白身魚のフライに一言添えるのか。見ればわかるし、そんなことは助言してもらわなくても「朝飯前」にできてしまう。しかも、その助言はぼくだけに聴かせたものではないことがわかった。相次いで会場にやってくる宿泊客の一人一人に、ホテルマンは「白身フライにはそのウスターソースをスプーンでおかけください」とやっているのだ。

なぜ、こんな言わずもがなの一言を他の仕事よりも優先していちいち告げるのか……食事をしながら、朝からこのワンパターンメッセージの必要性を考えさせられることになった。コーヒーをすすっていて、はは~んとひらめいた。このホテルマン、きっと「ある光景」に出くわした。その光景とは、串カツとウスターソースに慣れ親しんだ関西人が、白身魚フライを箸でつまんでウスターソースにドボンと漬けてしまったシーンだ。ホテルマン、二度漬けならぬ一度漬けに仰天! 以来、ワンパターンな助言を殊勝に繰り返しているに違いない。

語彙の磁場が動く

語彙のありようについても再考してみた。ことばには聴いたり読んだりしてわかる〈認識語彙〉と、話したり書いたりできる〈運用語彙〉がある。運用を「活用、生産、発表」などと言い換えてもいい。だから語彙を考える時、わかることばと使えることばに分けて論じることができる。

聴き取りにくい発音や判別しにくい手書き文字などの例外を除けば、自ら口頭や文書で使えることばなら、通常は聴いたり読んだりもできるはずである。「私はブログを書いています」と話せる人は、誰かが「私はブログを書いています」と言うのを理解する。また、「拝啓 貴下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます」と、文例を丸々引用するのではなく、自筆で書いた人ならば他人が書くその冒頭の挨拶文を難なく読み取るだろう。つまり、認識語彙は表現語彙よりも多い。

したがって、仮に難解とされている一冊の本を読了できたとしても、そこに書いてある用語や表現のすべてを読者が使えることは稀である。いや、正確に言うと、著者自身はその一冊の本の中で書いただけの用語や表現を運用できた。そして、おそらくその著者はそこで用いた用語や表現の34倍の認識語彙を有しているはずなのである。わが国の大半の成人の認識語彙力が35万語の間に分布しているようだが、実際に使えるのはそのうちの3分の14分の1とされている。


語彙の体系はそれまでの学習、環境、文化、専門、職業などによって決まる。クイズの得意・不得意分野などの性向とよく似ていて、社会一般は得意だが科学や工学は苦手、政治経済には詳しいがスポーツ音痴などのように偏っている。いろんなジャンルが均等に散らばっていることは逆に珍しいかもしれない。〈スキーマ〉と呼ばれる、会話・文章を理解するときに用いる知識体系がそこにあり、同時に階層構造状に〈フレーム〉が広がっている。得意分野になると、場面設定と行為がさらに詳細になって〈スクリプト〉を形成している。

語彙体系においては、その時々のお気に入りのことばが主導的になる。同義語を緻密かつ精細に使いこなしていた人でも、たとえば「人生いろいろ」や「ぶっ壊せ」のような大雑把な用語が気に入って多用し始めると、ことば遣いもアバウトになり偏ってくるものだ。ある分野の語彙の使用頻度が高まれば、相対的にその他の分野の語彙の出番が少なくなってしまう。

とりわけ要注意なのが、口癖や常套句である。口癖はその直後に続く表現を固定させてしまう。たとえば、「やっぱり」と言った後に「重要です」と続ける知り合いがいる。「雨降って地固まる」や「貧乏暇なし」などの常套句は使用文脈を限定してしまう。使う本人たちはほとんど気づいていないが、常套句を境にしてステレオタイプな方向へと話が展開していく。何万語の語彙を誇っていても、一つのことばが語彙体系の磁場をそっくり変えてしまうのだ。宝の持ち腐れにならないためには、多種多様なことば遣いを意識し、時には少々冒険的な新しい術語にも挑んでみるべきだろう。