腕組みより読書

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形ばかりのお盆休みの前に古本を10冊買い、仕事の隙間を見つけては形ばかりの読み方をしていた。さっさと読む〈斜読しゃどく〉、適当に頁をめくる〈拾読しゅうどく〉、複数本を同時に見渡すように読む〈眺読ちょうどく〉や〈併読へいどく〉などを繰り返していた。
本をまとめ買いしてから数日後、いつも思うことがある。狙いすまして買った本をろくに手に取りもせずに、ついでに買った本のほうに興味を覚えたりするのだ。今回も、他の9冊よりも、キリよく10冊目に手にした『偽善の季節』(1972年初版)が一番おもしろく、かつ考えるきっかけを作ってくれた。ためになるよりもおもしろいほうが健全な読書だとぼくは思っている。
著者のジョージ・マイクスは「自分を現実以上によく見せようとすること」を偽善と考える。これに従えば、ぼくたちはめったに自分をわざと現実以下に見せることはないから、みんなある種の偽善者だと言える。偽善が極論だとしても、ちょっとした背伸びや上げ底は日常茶飯事だろう。こういう行為のすべてが必ずしも相手を欺くことにつながるとは思えないが、ナルシズムの温床になっていくことは否めない。おっと、買った本の書評をするつもりではなかった。

最近、企画研修で口を酸っぱくして受講生に諭すことがある。腕組みをして沈思黙考しても、アイデアなど出てこないということ。アイデアはどこからかやってくるのではなく、自分の脳内に浮かぶ。だから、考えようと腕組みする態勢を取る瞬間から、アイデアが自然に湧くと錯覚してしまうのだ。仮にそうしてアイデアが浮かんだとしても、脳内のおぼろげなイメージをどう仕留めて仕事に生かすのか。
どんな課題であれ、考えるということは明示化することにほかならない。明示するもっともいい方法は外からの刺激や強制である。誰かと対話をするか、誰かの書いた本を読むか、このいずれかが手っ取り早い方法だ。但し、課題突破を手助けしてくれるような対話相手が周囲にいくらでもいるわけではない。いつでも思い立った時に、思考の触媒となってくれるのは読書のほうである。すぐれた対話のパートナーはめったにいないが、すぐれた本なら苦労せずとも見つかる。
困ったら腕組みするな、考えるな、むしろ本を読め、とぼくは主張する。考えてもひらめかないのなら、活字に目を通してみるのだ。困りごとで相談にやってくる人たちはほとんど、何で困っているのかすら説明できない。つまり、言語の次元に落とし込めていない。それでも、彼らは考えたつもりになっている。実は、思考と言語は切っても切れない関係なのだ。行き詰まりは言語で突破する。読書の他に、書いてみるという方法もある。腕組みをする時間があるのなら、本を読みノートを取り出しておぼろげなものの輪郭をことばにしてみることである。

読むことと書くこと

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年が明けて三週間。かなり遅めの「初ブログ」になってしまった。書けなかったわけではないが、結果的には書かなかった。考えてばかりいてはいけないと思う。考えようとして考えられるケースはめったになく、書くことによって思考を誘発せねばならないとあらためて痛感した。というような理由から、本稿の「読むことと書くこと」について書こうと思った次第。
 
オフィスの一角に蔵書の一部を引っ越しさせようと思い立ってから一年近く経つ。そう思いついてからも本を買い漁ってきたので、自宅の書斎はもうパンク寸前になっている。間に合わせの片づけをしてはみたが、破綻は時間の問題である。これまでの蔵書から何百冊かセレクトし、それにこの一年買い集めてきた書物を加えて、3月末までに「文庫」を作るつもりだ。
 
さて、写真は「古本初買い」の13冊。すべての本を完読などしていないが、ざっと目を通したところでは、脳内に手持ちの「星々」と本の「星々」とを愉快な線で結べそうなものがある。独自の星座が見えてきそうだ。実社会に出た人間にとっては、読書という行為は書物内情報の自分への移植などではない。試験でチェックされることもない。忘れてしまってもいいし、どうしても覚えたければ再読すれば済む。読書は自分を高める触媒でありヒントなのである。

それでもなお、自力で考えることのほうが重要であって、読書はその補助にすぎない。本を買って読むことなど威張れた話ではなく、やむをえない行為だと思っておくのがいい。ぼくにとって読書は「道楽」だ。道楽だから関心のあるなしにかかわらず、ピピっと縁を感じたらとりあえず買っておく。買って気が向いたら拾い読みする。もちろん、しっかり読むものもあるが、知的刺激を楽しむことに変わりはない。何かの役に立てようなどという下心を捨ててこそ、じわじわと知の枠組みが広がっていく。
 
読むこととは対照的に、書くことは思考を触発し起動させる「闘争」である。ぼくたちは腕を組んで考えているようで、実は思考と程遠い行為であることがほとんどだ。時間を費やしてはみたが、結局は考えていなかったということが後でわかる。おぼろげな心象を言語で表現してみる、あるいはわけのわからぬまま書いてみることによって思考が具体化し知識になってくる。要するに、「書かなければ何も解らぬから書くのである」(小林秀雄)。
 
プロの著述家の話をしているのではない。書いて初めてわかることがあり、書くことによってのみ脈絡が生まれ断片的な知識が統合されることがある。ぼくの周辺に関するかぎり、若い人たちは書かなくなった。一過性の会話で饒舌に語ることはあっても、書かないから考えも浅く筋も通らない。だから、書かない人に会うたびに書くことを強く勧める。どうせ書くなら、ツイッターの文字数程度ではなく、原稿用紙二、三枚単位で書きなさいと言う。書くことの集中は読書の精読にもつながることは明らかなのである。

日付のない紙片

百円だった、その本は。古本屋で。百円とは驚きだ。気づけば買っていた。手に取ってペラペラ捲ると、あの古本独特の日陰の干草のような匂いが少し鼻をついた。初版が昭和262月。誰かさんとほとんど誕生年月日が同じ。但し、今手元にあるそれは昭和43年8月の改訂重版だけど。

やれやれ、昭和で時を語るには無理がある。西暦に「翻訳」できない連中が増えてきたから。知っての通り、いや、知らないかな、昭和○○年の○○に25を足すと、西暦19□□年の□□になるんだね。東京オリンピックは昭和39年で、3925を足すと64だから、西暦1964年というわけ。

その本を書いたのは、1960年代に日本でも哲学ブームを巻き起こしたあの人。そう、サルトル。猫も杓子もサルトル。なんて言われたかどうか知らないが、とにかくサルトル。ぼくの尊敬するY氏が嵌まった哲学者サルトル。実存主義をもっとも有名にした、パリ生まれのジャン-ポール・サルトル。少しくどいか。

屁理屈をこねるとキリがない。大雑把に言えば、実存主義というのは「人間存在の独自のあり方」だ。そこらにある道具や事物と同じように人は存在していないぞ、というわけ。で、その本の題名? そうそう、その話。それは、サルトル33歳のときの長編小説『嘔吐』だ。


小説は日記風になっている。詳しくは書けない。なぜかって、途中で読むのをやめたから。サルトルの哲学書を読んだ知り合いはそこそこいるけれど、この『嘔吐』の最終行まで辿り着いた奇特な読者は回りにいない。未来の読者のためにあらすじは書かない。いや、書きたくても書けないし。

少し抜き書きすると、こんな調子。

きのうどうして私はつぎのような愚劣で得意気な文章を書くことができたのか。「私はひとりぼっちだ、しかし空から街へおりてくる一群のように歩いている」と。文章を飾ることは必要ではない。私はある種の情況を明瞭にするために筆をとっている。文学を警戒すべきである。ことばを捜すことをせず、筆の走るままにすべてを書くことだ。

さらに読み進んだ別の箇所には次の一行がある。

記すことなし。存在した。

不条理で不思議な空気が充満してくる。異様なほどの精細な描写もあるし……。小説の冒頭で、どんなふうに記すべきかを書いている。プロローグと言えばいいのだろうか、それが「日付のない紙片」という見出し。出だしはこうだ。

いちばんよいことは、その日その日の出来事を書き止めておくことであろう。はっきり知るために日記をつけること。取るに足りぬことのようでも、そのニュアンスを、小さな事実を、見逃さないこと。そして特に分類してみること。どういう風に私が、このテーブルを、通りを、ひとびとを、刻みタバコ入れを見ているかを記すべきだ。なぜなら、変ったのは〈それ〉だからである。この変化の範囲と性質を、明確に決定しなければならない。

この書き出しだけでも、読んだ意味があった気がしないでもない。いつか辛抱して完読しようとは思うけれど……。いや、その時間があれば別の本を読むほうがいいか。どうだろう、『嘔吐』。よければ、読んでみる? えっ、読む前から吐き気がするって? それは正しい感覚かもしれないね。

本探しのおもしろさ

この本を読もう!   と決意することはめったにない。そのように狙い定めるのは一年に十数冊程度で、その種の本はだいたいすでに買っていて手元に置いている。これから買いに行く時は書名がわかっているから、大型書店では書名検索で端末を操作する。著者名で検索するのは、その著者の一冊を読んで気に入り、別の著作を探す場合に限られる。その場合でも、すでに読んだ本の著者プロフィールにたいてい代表作が載っているから、おおむね書名検索できることになる。

何年か前から古典を中心に読書しようと意識している。ここで言う古典とは「新刊ではない」と「トレンディーではない」という、ざくっと二つの条件を満たすものである。新刊でトレンディーなものをまったく読まないわけではないが、全読書の一割にも満たない程度だ。最近では『追悼「広告」の時代』と先日取り上げた『日本人へ リーダー篇』のみ(いずれも本年5月発行)。「最新何とか事情」や「〇〇の常識とウソ」のような内容は、もし強い関心があればインターネットを利用するし、たいていは新聞のコラムや記事で済ましている。

大きな書店に行く主な理由は、若い頃に読んだが、すでに処分してしまったのを買って再読するためである。ついでに、読みそびれていた作品も少々(古典と称しているが、思想や文化や歴史が中心で、文学の類はさほど多くない)。それ以外に用はないので、ほとんど立ち読みはしないが、昨日も書いたように、丸々読む気はないが、少しチェックしたい本の目ぼしい箇所のみ、ほんの2、3分ほど目を通す。なお、大書店にはテーブルと椅子まで用意して座り読みまで推奨している所があるが、そこまでするくらいならさっさと買ってしまう。


古書店では立ち読みする。これは当然のことで、そもそも古本を売る店で立ち読みしない買い方などありえない。つい先日も、電子書籍ばかりになってしまったらこの立ち読みというのが消えてしまうのか、などと思っていた。古書店の最大の愉しみは当てもなく本を探すことである。まったく興味外れのジャンルの本であっても、一冊200円などの「情報価値の高そうな本」に出合えば立ち読みすることになる。買うのはせいぜい500円くらいの本までで、平均すると300円程度の本を買い求める。

最近では『偽書百選』という本が300円だった。垣芝折多という、ペンネームであることが明らかな著者である。巻末の解題に松山巖という人物が書いている。「垣芝折多は本書を書き上げ、ゲラを直した後、一週間も経たぬうちに急逝した。いともあっけない死であった。本書の文中にも、これを一度きりの仕事とすると断わる言葉が見えるし、私にも同じようなことを話していたから、それなりに心中期するものがあったのかもしれない。私は垣芝の幼なじみである。……」

断わっておくと、垣芝と松山は同一人物で存命中である。この本で紹介されている書物は、拭座愉吉著『掃除のすゝめ』(明治七年)に始まり、春日トキ著『吾輩は妻である』(明治四十一年)、Q・リマッキー他著『スシ大スキ』(大正四年)、新宅建造著『住まいの未来』(昭和二十二年)などが続き、最後の第百書が本田要著『本を読まずに済ます法』になっている。すべての書物に3ページほどの書評もしくは解説文がついている。

『偽書百選』は二十年ほど前に週刊文春で連載されたものを収録したものだ。実は、ここに所収の百冊の本は書名にあるように「偽書」で、どれ一冊も現実に存在していない。すべて垣芝、すなわち松山の創作なのである。第四十六書の南海海雅著『第拾感主義藝術論』や第八十書の宇狩紋太著『失敗の学習』などは今すぐにでも手にとってみたいと思う魅力的な書名である。現実に存在する真書とそうでない偽書を画する一線は、手に入るか入らないかという違いのみ。ある意味で「偽書も書なり」なのかもしれない。何はともあれ、新しい文庫でも手に入る同書の初版の単行本が300円で読めるのがいい。この本ならネットでも買えるではないかと言われるかもしれないが、ぼくは試し履きもせずに靴を注文するような本の買い方になじめないのである。