全体と部分の関係

よくある折りたたみ式のヘアドライヤーを使っている。整髪のために使うのではなく、濡れた髪を乾かすためである。そのドライヤーの折りたたみ部のプラスチックが欠けた。小指の爪ほどのかけらだ。「強力瞬間接着剤」で何度もくっつけようと試みたが、100円ショップで買ったその接着剤、まったく強力ではない。くっつくことはくっつくのだが、折りたたみ部を伸縮させるとすぐに剥がれてしまう。それ以上意固地にならず、また、買い替えようとも思わず、機能そのものにまったく支障がないので今もそのまま使っている。

これは、部分の欠損が全体に対して特段の影響を及ぼさないケースだ。しかし、さほど重要ではない部分が全体の価値を落としてしまうこともある。たとえば、チャーハンに入っているグリーンピースやカレーライスに添えられた福神漬け。これらの取るに足らない脇役のせいで食事を心から楽しめていない人たちがいる。彼らは、嫌いなグリーンピースを福神漬けを悪戦苦闘して排除しようとする。全体に関わるマイナスの部分に容赦ならないのである。

実は、ことばというものは、ある文脈でたった一語が足りないだけで意味を形成しづらくなる。ことばはお互いにもたれ掛かってネットワークを構築しているので、ある語彙の不足・忘却は既知の語彙全体の使い方にも影響を及ぼす。

では、頭の働きはどうなのだろうか。人の身体には欠損を補おうとする機能がある。アタマも同様で、たとえば左脳に傷害が起こると右の脳が部分的に代役を務めることはよく知られた話だ。だが、精密機械の小さな一部品の故障が機械全体の不具合を招くように、言語と思考は一つの異常や不足によって全体の磁場を狂わせてしまうと考えられる。個がそれ自体で独立しているのなら不都合はないが、おおむね個は全体あっての存在なのである。だからこそ、個の問題はつねに全体に関わるのだ。


「全体は部分の総和以上であり、全体の属性は部分の属性より複雑である」

これはアーサー・ケストラーの言である(『ホロン革命』)。ケストラーによれば、「複雑な現象を分析する過程で必ず何か本質的なものが失われる」。つまり、全体を個々の部分に分解しても全体と部分の総和はイコールではないということである。このことは少し考えてみれば納得できる。レシピの材料の総和以上のものを料理全体は備えているし、住宅はあらゆるコンポーネントを組み立てた以上の存在になっている。

腕時計の完成形という全体構想に合わせて部品が作られ集められるのであり、一軒の家の設計図があって初めて柱や壁や屋根やその他諸々の部材が規定されるのである。決して部分を寄せ集めてから全体が決まるのではない。この話は、総論と各論の関係にも通じる。意見の全体的なネットワークを総論とするなら、各論が勝手に集まって総論を形づくっているのではない。思想や価値観の根幹にかかわる、その人の総論がまずあるべきなのだ。

人の顔色を見てそのつど間に合わせの各論を立て、それらの各論を足し算したら総論になったなどというバカな話はない。総論はさまざまな意見の全体を見晴らしている。それはつねに漠然としながらも、人生や世界や他者に対して変わりにくい価値を湛える。総論という意見のネットワークにはもちろんケースバイケースで各論が入ってくる。それはまるで、時計や家にソリッドな堅強系の部品とデリケートな柔弱系の部品が共存するようなものだ。各論に極論があってもいいが、総論には全体調和論がなければならないのである。

ドンブリ勘定の総論

「人のふり見てわがふり直せ」とつくづく思い知った次第である。正しく言い換えれば、「人のコメントを聞いてわがコメントを直せ」となる。昨日の話だ。

民主党による政権交代が確実になった情勢を受けて、ある経営団体のトップが「今年3月、7月と中堅中小企業は(この経済状況の中を)何とか乗り切ってきた」とコメントしていた。前後関係の文脈に意味があったのかもしれない。だが、この人のこの視点はマクロ的でありコメントは総論であった。こういう言い方が可能であるならば、どんなに困難な局面にあっても中堅中小企業は「いつの時代も」何とか乗り切ってきたと言えるではないか。

まるで草食動物が何とか生き延びてきたと述懐しているようである。地球上に生まれてこのかた草食動物は滅んでいない。たしかに生き延びてきた、総体としては。「いつの時代」も命を絶やさなかった。個体は次から次へと没しては新しい命へとリレーして、総体として今に残ってきた。だが、今年に限っても、アフリカの草原で肉食動物の餌食になった草食動物の個体はいくらでもいるはずだ。草食動物というグループ概念がびくともしないからと言って、少なからぬ個体が肉食動物の胃袋の中に消えたのは疑いえない事実である。

比喩が一人歩きをするとまずいから、話を中堅中小企業に戻そう。ぼくの会社――れっきとした中小企業――は、お説の通り、たしかに何とか乗り切ってきた。今のところは、幸いにして総論でくくられた一員である。だが、総論コメントは「乗り切れなかった中堅中小企業」にまったく配慮していない。中堅中小企業総体としての種は存続しているが、少なからぬ企業が乗り切りに失敗しているのが実情なのだ。


「中堅中小企業は何とか乗り切ってきた」という総論的概括は、個体に目を向けてはいない。そもそも総論とは各論の対義語なのであるから、各々おのおのに関与することはないだろう。今年に入っての倒産企業が全体の何パーセントか知らないが、まさかこれらの企業も含めたうえで「何とか生き残った」はない。とすれば、例のトップは「何パーセントかの生き残れなかった企業」を知っていて、なおかつ生き残り組から除外してコメントしたのだ。総論でさらりと片付けてしまうとはあまりにもひどい話だ。

国家にとっても、経済団体にとっても、「生き残り」は総論扱いで済ませてしまえばいいテーマのようだ。他方、中堅中小企業の各社にとっては、自社の問題であり各論課題なのである。各論で語ってほしいと待ち受けている人間に総論をぶつけるのは無神経であり冷酷だ。とりわけ倒産した企業にはたまらぬコメントになったに違いない。

「総論よりも各論」を心得としているぼくだが、他山の石とせねばならない一件ではある。マクロに語ったり一般論を唱えたりする時、論理的な誤謬に気をつけるのはもちろんだが、もっとたいせつなのは特殊や個別への思いやりである。「昨年来の金融不安の影響を受けた中堅中小企業。それぞれに企業努力を重ねたものの、緊急対策も功を奏さず、息絶えた企業も少なからずあります」。少なくともこの一言を添えてから総論を述べるだけの感受性を持ち合わせるべきだろう。