軽はずみなお愛想や同調

ずいぶん昔のことなので、誰かから教わったのか書物で読んだのかよく覚えていない。店で食事をして客のほうから「お愛想あいそ」と会計を求めてはいけないという話。そのわけは「金を払うから、さあ愛想しろ」ということになってしまうから。つまり、お愛想は店側のことばであって、客側のことばではない。客は「ご馳走さま。お勘定してください」というのが礼儀である――このように聞いたか読んだかした。ぼく自身は、自前で外食をするようになってからは「お愛想」と言ったことはなく、いつも「お勘定してください」だ。

もともとは「お食事中に会計のことなど持ち出すのは、まことに愛想づかしなことですが……」という常套句が転じて、会計のことをお愛想と呼ぶようになった。さて、ここで取り上げたいのは寿司店や居酒屋でのお勘定マナーではなくて、日々のコミュニケーションでの「相手の機嫌をとるためのお愛想」にまつわる話である。

誰かの「こうしたらどうだろう?」との提案に無検証のままイエス反応を示す「お愛想人種」が目立ってきた。いや、昔からこういう連中のことを「茶坊主」などと呼んで小馬鹿にしてきた経緯がある。だが、茶坊主には目的があった。そこには力関係のようなものが働いていて、意に反してでも人間関係を維持するために迎合役を演じていた。気になるお愛想人間のほうは無思考なのである。無思考ゆえに対話にすらならない。力関係などまったく働いていないし気にもかけていない。にもかかわらず、彼らはただ単に相手の機嫌を取って軽はずみに同調するだけ。そして、パブロフの犬のように無条件に反応するのみ。


同調ということば自体に悪い意味はない。調子や波長を極力同じにしようと努めるのはコミュニケーション上決してまずいことではない。だから「軽はずみな」と修飾しておく。軽はずみな同調とは、他人の意見に自分の意見を無理やり一致させることだ。本心はノーまたは「ちょっと待て」なのである。にもかかわらず、お愛想を振りまいて御座なりに場をやり過ごす。

イエスとノーが拮抗して選択の岐路で迷ったら、「とりあえずノーを表明して検証してみよ」とは、交渉や議論においてよく言われることだ。誰にも経験があるだろうが、軽はずみにイエスで安受けしたのはいいが、後日ノーに変えるのは大変だ。イエスをノーに変えるエネルギーに比べれば、ノーをイエスに変えるのはさほど問題ではない。早めのノーはつねに遅めのノーよりも有効であり、免疫効果も高い。

もちろんノーにはとげがある。誰だって「ノー」と突きつけられて気分のよいはずはない。自分がそうなると嫌なので、軽はずみな同調者は棘を避ける。最初は人間関係に棘をつくりたくないと意識してお愛想をしていたはずだ。ところが、このお愛想を何年も繰り返しているうちに、棘を刺したり刺されたりの経験から遠ざかり、やがては無意識のうちに「はい」とか「いいですね」と無思考・無検証同調をしてしまうようになる。あとはダンマリを決めこむ。ダンマリの数歩向こうには黙殺・無視があり、棘どころではない苦痛をともなう残酷な人間関係が待ち受けている。そのことに彼らは気づいていない。  

「迎合術」なる裏ワザの持ち主

極端なまでに同調されるくらいなら辛辣に批判されるほうがましだと思うことがある。理不尽なこともあるが、論駁には何らかの筋や理由が込められているので、ある程度論駁者の意図をつかめる。これとは逆に、受容され共感され、やがてやたらに迎合されていることに気づく時、どのように振る舞えばいいのかわからなくなってしまう。迎合とは、自分の考えや意見を潜め、あるいは曲げて、相手の機嫌を取ったり相手の心証を害さぬように同調したりすることである。この迎合術を巧みに使いこなして無難な人間関係を築き、したたかに世を渡っていく人間がいる。


コミュニケーション現象の一つとして「語尾上げことば」が話題にのぼったことがある。語尾上げを茶化した「語尾上げよりお買い上げを」というコマーシャルも流れた。発話された最後の音のイントネーションが、断定とも質問とも判じがたく耳に響くのが語尾上げだ。たしかに語尾は上がっているのだが、必ずしも尋ねているのではない。この種の抑揚をぼくは「クエスチョン調ピリオド」と命名していたが、すでに「半クエスチョン」という名称も存在している。とりあえず「半クエ」と呼んでおく。

「上野の国立西洋美術館のルーヴル美術館展、チケットがございますわよ」と言うときに、「美術館展」の「てん」の「ん」が「ん〈↑〉」とフリーズするように語尾上げになるのだ(文字で再現するのはつらい)。言うまでもなく、尋ねているわけではないし、ことばに詰まったわけでもない。冷ややかに語尾を上げて絶妙に半呼吸を置くのは、厚顔無礼にも小憎らしくも響く。ただ聞きようによっては、割れるかもしれない氷の上に恐る恐る足を踏み出すような、さほど自信はないが、さりとてもはや引き下がれないぞという強がりの心理とも取れる。語尾上げは迎合の出発点であることが多い。

知り合いに迎合術の達人が一人いる。彼は聞き上手、というか、問い上手だ。矢継ぎ早に質問して好奇心旺盛なるところを誇示する。ある話題についての会話が途切れたとき、「ところで、カフカ、読みます」と切り出した。この語尾の「す〈↑〉」が悩ましくもデリケートな抑揚、つまり半クエになっている。そして、「あなたはカフカを読みますね」とも、「カフカがお嫌いではない」とも、「ぼくと同様に好きなのでしょ」とも、「ここまであなたと話してきて、私が察するところ、おそらくカフカを読んでいるはず」とも聞こえてくるのである。お主、なかなかの使い手じゃないか。


その昔よくカフカを読んだので、正直に「カフカ、いいねですねぇ。好きですよ」と答えたのである。すると、この御仁、目を見開き「ですよねぇ~」とすぐさま、しかし粘りのある語調で反応した。この「ですよねぇ~」がぼくへの迎合であることはもちろん、同時に、そこには居合わせてはいないが、世間のどこかにいるだろうカフカ嫌いに対して勝ち誇る雄叫びのようだった。

カフカと無関係の話しか交わしていなかったが、会話を通じて彼はぼくがカフカに好意的であることを見抜いていた。「カフカ、読みます」という問い(いや、投げ掛け?)は明らかに「イエス」を想定している。では、彼の意に反して、ぼくが「カフカ? う~ん、あまり好きじゃないなあ」と答えればどうなるか。たぶん彼は平気である。それに対しても、「ですよねぇ~」と彼は応じればいいのである。「カフカ、読みます」と語尾を「す〈↑〉」にしている半クエが、想定外のノーに備えた「保険」になっている。

さほど関心もないことを尋ねたり、心にもない同調をしたり、相手を傷つけぬよう計らい、なおかつ自分がうまく場を取り回す。まるで幇間ではないか。しかし、この幇間の迎合術は侮れない。なぜなら、彼は「取って付けたような同調」が見破られていることを承知していて、それをわきまえたうえで振る舞っているからだ。「ですよねぇ~」という同調を時折り無性に求めてしまうが、これこそがこの迎合術の凄さを物語っている。