考え浅くして、表現先走る

故事名言・諺・格言.jpg最初に断っておく。ぼくは故事、ことわざ、金言名言、四字熟語にそこそこの興味がある。箴言集などもよく読む。若い頃から続いており、今もなおそうだ。但し、検定の一つでも受けてみようと思い立つようなマニアではない。ちょっとキザかもしれないが、考える材料としてああでもないこうでもないと解釈して一人愉しんでいる。

俳句の向こうに句意や主題を読み解こうとするのに似ている。珍味の貝ひもから原形を想像するのにも似ている。一行表現に凝縮された、今もなお語り継がれる格言やことわざの類は文脈や行間を背負ってはいるが、露骨に見せない。文脈や行間や背景の見据え方は、味読するぼくたちの想像次第である。「さあ、この格言をきみはどのように読み解き、推論し、どこへ帰着させるのか」と問われているような気持で向き合うとき、スリルとサスペンスが横溢してくる。
中学生の頃に習った英語表現を思い出す。“X is made of Y.”“of”を用いるときは、XYでできていることが見ただけでわかる場合。木製の机は木でできていることがわかる。他方、モノを見ただけでは原形や原材料がわからないとき、“X is made from Y.”“from”を使う。パンは小麦粉もしくは小麦からできていることを、知識がなければ類推しづらい。スルメからイカに遡るのも容易ではない。格言やことわざも同様で、読んですぐに理解できたらつまらない。ハイコンテクストであればあるほど、XYfromでつなごうとする意欲も高まる。

凝縮された格言やことわざをみんなが同じように解釈してもしかたがないし、たとえばぼくが一つの名言をいつも同じように解釈する必要もない。立場も状況も知識もキャリアも違えば、凝縮された表現のほどき方も変わってしかるべきだろう。もう一言付け加えるならば、格言もことわざも強引に普遍化され、洗練され、単純化されている。「急がば回れ」などその最たるものだが、同時に決して鵜呑みにできない極論も内蔵されている。
にもかかわらず、「考えるな、感じろ」というフレーズにしても、「考えなくていいんだ」と己に言い聞かせておしまい。“Stay foolish”だから「バカでいいんだ」と勝手解釈してけろりとする。表現処理で終わるなら、そんなものは格言でも何でもないのだ。世にメッセージを伝え残そうとする手段はいろいろある。コンテンツを並べて論理でつなぐ方法もあれば、エッセンスのみを抽象して短文メッセージにする方法もある。格言・ことわざの類は後者である。
ろくに熟考もせずに、思いつきの表現をにわか仕立てする傾向が目立つ。適当に気に入ったことばだけを並べておいて、そこに後で強引な意味づけをしようとする。衣装を着飾ってからその衣装に見合う体躯をこさえようとするわけだが、体躯に無理をさせる。ぶかぶかの衣装、あるいは身がはみ出しそうなきつい衣装は滑稽である。
線であれ点であれ、思いと表現には責任を持たねばならない。ぼくなどは点の表現で語り済ます自信が十分にないから、こんなにくどく線によって思いの筋をつなぐしかない。裏返せば、格言を作って知らん顔できないからこそ、古今東西の格言に対してもおもしろおかしく解釈して思考訓練してみようと好奇心が奮い立つ。

縁あって知る、ちょっといいことば

先月の下旬にぶらぶらと歩いていたら、寺の壁に黒白の幕が張ってあった。興味本位で近づけば吉祥寺とある。黒白幕は1212日の義士祭に備えてのものだった。播州赤穂だけでなく、浅野家ゆかりということから大阪下町のこの寺にも墓があるわけだ。詳しくもなく調べもしていないが、内蔵助良雄の座右の銘が碑に刻まれていた。「全機透脱」がそれ。全機も透脱も『正法眼蔵』に出てくる熟語だが、合成した四字熟語は見当たらないから、内蔵助の造語かもしれない。大きな辞書にも載っていなかった。

『正法眼蔵第二十二』を少し読んでみたら、難解でよくわからない。前後の文脈にこだわらず、「全機現に生あり、死あり」という、一番わかりやすかった箇所だけ都合よく注目する。「すべてのものの働きに生と死がある」という意味だ。透脱のほうは、「諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり。その透脱といふは、あるひは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり」という文で冒頭に出てくる。透脱は「縛られることのない、完全な自由」のように思われる。

全機透脱。メッセージに重厚な意味が込められた、揮毫向きの四字熟語ではある。三十年以上も前の話だが、勝海舟の『氷川清話』の中で「虚心坦懐」に出合った。ずいぶん気に入って筆で書いたりもし、わけのわかった顔して話したりもした。ところが、例の劇場系首相が頻繁に使うようになってから、縁遠くなってしまった。はしゃぐ人には合わないことばだからだ。あの人には「人生色々」という四字熟語のほうが似合っていた。心にわだかまりがない様子を現わす虚心坦懐には、どこか全機透脱に通じるものを感じる。


『氷川清話』を読んだ頃の蔵書は手元に一部しか残っていない。十数年前に本が増えてしかたがないので、要らないものを処分しようとした。ところが、間違って不要でないものまで処分してしまった。再読したい本は買うが、価格がまったく違う。当時150円ほどで買った文庫本が800円くらいになっている。しかし、思想系の叢書などは古本をバラ買いすると安い。先週買ったスピノザの『エティカ』など100円だった(中央公論社の世界の名著シリーズで、ライプニッツの『モナドロジー』も入っていて、お買い得だ)。

『エティカ』は大部分定理という形で書かれていて、一見すると難解そうに見える。しかし、実際はやさしく読める。箴言集として読めばいい。次から次へと共感する名言が現れてくる。この種の本をよく読んでいた若い頃、目的もなく、将来使ってやろうという野望もなく、お気に入りのことばをせっせとノートに書き写していた。まったく記憶の片隅にもないつもりだったが、再び通読してみると覚えているものだ。何年経過してもよい、本はやっぱり二度読むべきなのだろう。ちょっといいことばをいくつか紹介しよう。

「喜びとは、人間が小さな完全性からより大きな完全性へ移行することである。」

「自由な人間は、けっしてごまかしによって活動せず、常に誠実に行動する。」

「人があれもこれもなし得ると考える限り、何もなし得る決心がつかない。」

文字通り読んでもいいし深く読んでもいい。最後の一文には大いに共感する。「何でもできる」という思いが、強い意志の表れではなく、単なる「意地」であったりすること。あれもこれもは結局どれにも手をつけないということ。実行可能性の高いことよりも、成功しそうもないことを人は掲げようとすること。