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とあるお店のトイレに貼り紙がしてあった。「もう一歩前へ」という野暮な注意書きではない。そこにはこう書かれていた。

心を開いて“Yes”って言ってごらん。すべてを肯定してみると答えが見つかるものだよ。

このことばの上に、あのあまりにも有名な歌手の写真が添えられている。いや、その写真にこのことばが付け加えられているというのが正しい。ファンなら瞬時にジョン・レノンと言い当てるに違いない。この文言、見たか聞いたかした気はするのだが、おおよそでも再生できそうにないので、知らないと言わざるをえない。世間ではビートルズ世代の一員とされるのだろうが、恥ずかしながら、ぼくはビートルズ音痴である(別に恥ずかしがることはないか。歌なら数曲程度は知っているし、唄える)。

二十年程前に主宰していた勉強会で、当時大学の助教授だった2歳年長のY助教授に『ビートルズの社会学』と題してカジュアルな話をしてもらったことがある。熱狂的であるとはこういうことなのだと思い知った。ビートルズのことを何でも知っていたし見事な薀蓄の傾けようだった。ぼくの目からはウロコが何枚も落ちた。これに比べれば、ぼくには熱狂するテーマなり対象なりがほとんどなく、根っからのなまくらな雑学人間なんだと自覚したものである。


但し、アマノジャクなので、「心を開いて“Yes”って言ってごらん。すべてを肯定してみると答えが見つかるものだよ」という文章などに出合うと、それがジョン・レノンであろうと他の有名人であろうと、その場でメッセージに共感して「ハイ、おしまい」にはならない。立ち止まってみる。時には一種偏執的に真意をまさぐり考えてみる。「ほんとうにそうなのか?」と。

手っ取り早く考えるために、文中のキーワードを二項対立の他方に置き換えて読み返してみる。キーワードは“Yes”と「肯定」だ。二項対立の概念は“No”と「否定」。すると、ジョン・レノンのオリジナルが次のように置き換わる。

心を開いて“No”って言ってごらん。すべてを否定してみると答えが見つかるものだよ。

“No”と言うために心を開かねばならない時がある。親しいからという理由だけで何でも“Yes”ではなく、親しいからこそ、心を開いて――偏見を拭い去って――”No”と言ってみるのだ。自分の価値観、他人との過去の関係、前例というものをすべて否定してみると、見えなかったものが見えてくる。すべてを否定していた人間がすべてを肯定するのは、固定観念を脱しようとする挑戦である。そうであるなら、すべてを肯定していた人間がすべてを否定してみるのも、同じく脱固定観念への試みなのではないか。

全肯定と全否定が同じ働きに見えてしまうのは、やっぱりぼくが逆説的人間だからかもしれない。だが、安易な“Yes”のやりとりの末の共感は心もとない。真摯な“No”のやりとりあってこその共感だろう。軽はずみな“Yes”は厳しい“No”よりも人に迷惑をかけるし破綻もしやすい。これはぼくにとって身に沁みる経験則の一つになっている。

対話のための条件

昨夜『対話からのプレゼント』と題して文章を書いた。但し、ただでプレゼントにあずかろうとするのは勝手が過ぎる。プレゼントを貰おうと思えば、それなりの条件を満たさねばならないのだ。対話を「論争」という激しい表現に変えても同じこと。少なくとも意見を異にする二者が何事かについて賛否を交えるためには、いくつかの条件が揃う必要がある。

見解の相違は人間社会の常態である。満場一致やコンセンサスのほうに無理や不自然さを感じる。十人十色とは言い得て妙で、人の意見は同じであるよりも異なっていることのほうが常。同種意見で成り立つ同質性の高い集団は脆弱であり、異種意見を容認できる異質性の高い集団は柔軟にして変化に強い。もちろん例外もあるが、安易に意見を同じくしようとする努力の前に、双方の異種意見に耳を傾けて大いに議論を戦わせるべきだろう。ぼくたちの風土は、反論や批判にあまりにも弱すぎる。

二十代の頃によく対談集を読んだ。わが国で出版される対談集のほとんどは、座談会形式によって編み出される。めったに挑発的なくだりに出くわさないし、スリリングな論争も見受けない。対談する両者の仲が良すぎるのである。もっとも、仲が良いから是非の対話ができないわけではない。仲が良いからこそ、激論しながら「親しき仲にも礼儀あり」を尊べるとも言える。逆に、見も知らずの相手になると、無難な会話で済ますか、あるいは一触即発の交渉的論争になってしまう可能性が高くなる。


さて、本題。ある命題を巡って主張し反論する対話やディベートにおいて、否定は不可欠な条件である。しかし、通りすがりに誰かを殴りつけるように否定できるわけではない。否定や反論は「何か」に対しておこなわれる。その何かがなければ否定や反論に出番はないのだ。その何かとは、いずれか一方による最初の意見である。サーブがなければ打ち返せない。先手に最初の一手を指してもらわねば、後手はいかんともしがたいのである。

まず、いずれか一方が基調となる意見を述べる。ディベートでは、肯定側による論題支持がこれに当たる。わかりやすさのために一例を挙げる。テーマは「和食の後は日本茶にかぎる」。

「ぼくは和食の後は日本茶にかぎると思うね」と一方が意見を述べる。対話術の訓練を積んだ人間は、この意見に続いて必ず理由を述べるし、必要ならば事例や権威を引く。しかし、相当な知識人でも、対話に親しんでいない者はぽつんと一行語っておしまいだ。この意見に対して、ぼくの常識・経験センサーが反応して「意見の異種性」を検知する。けれども、論拠も証拠もない主張だから、「いや、和食の後は日本茶とはかぎらないだろう」という否定で十分。わざわざ紅茶でもコーヒーでもいいなどとこちらから証明することはない。

もうこれで勝負ありなのだ。そう、後手(ディベートの否定側)の勝ち。後手(否定側)は、先手(肯定側)の説明の程度にお付き合いすればいいのである。このように、端緒を開く側が対話成立の第一条件を満たさねばならない。質も議論の領域も方向性もすべて、この第一条件によって決まる。「和食の後は日本茶にかぎる」という主張を支える理由を示すという条件である。否定する側は、命題を否定するのではなく、この理由に反論するのだ。理由を崩すことができれば主張が揺らぐ。

最初に主張する者(肯定側)の負担は大きいということがわかるだろう。「主張する者が立証の責任を負う」と言われる所以だ。反論する側は立証されもしていない主張を崩すことはできない。そこに何もなければ否定はできないのである。初級教育ディベートでは肯定側を大目に見ることがあるが、限度がある。「和食の後は日本茶にかぎる」と言いながら、烏龍茶の話ばかりしていたら命題に充当した議論になっていない。これでは救いようがない。

すぐれた主張がすぐれた反論を生み、それがすぐれた再反論をもたらし、ひいてはすぐれた意見交換と啓発の機会をもたらす。すぐれた対話術ディアレクティケーへの道はひとえに最初の話者が鍵を握っている。対話やディベートの初心者はここを目指さなければ上達は望めない。

「してはいけない」という方法

幼児教育に詳しいわけではないが、「~したらダメ!」と躾けるよりも「~しようね」とおだてるほうがよさそうに思える。ぼく自身は当事者として一顧だにしなかったが、他所の親を見ていると、明けても暮れても禁止文ばかり使っていると子どもが萎縮してしまうのではないか、などと感じたものである。躾けの効果についてはムチとアメは拮抗すると察するが、「廊下で走ってはいけません」や「そんなふうに食べてはいけません」などの否定表現に対して、たしなめられたほうが微笑み返すことはむずかしい。つまり、空気が翳る。

ところが、道徳規範にまつわる何ヵ条かの教えなどが未だに功を奏していないのを見ると、呼びかけを「何々しよう」とポジティブにするくらいでは人は決して変わらないのだろう。「お客さまに笑顔で接しよう」「大きな声で挨拶しよう」「感謝の気持で日々を過ごそう」など、今さら成人にオルグしてもしかたがないではないか。いや、言わぬよりはましだとしても、陰気な表情でぶつくさ喋ってきた大人に効き目をもたらすとは到底思えない。墨で直筆した《食事の五観文》を自宅の台所に貼ってあるが、あの種の偈文げぶんは、だいたいが気休めにすぎない(もちろん、気休めも何がしかの功ではある)。

昨日、一昨日と二日連続で「愚かなこと」について書いてみると、愚者には「してはいけない」という禁止もやむをえないという気になってきた。別に性悪説に乗り換えるつもりはないが、差し障りのない道徳的教訓の香りを充満させるよりも、 “Don’t” を突きつけるほうが身に沁みるかもしれない。他人はともかく、まずは己に「してはいけない」を自覚させる。アリストテレスの愛弟子であるテオプラストスは古代ギリシアの人々を三十もの辛辣な形容詞で揶揄しているが、こういうタッチのほうがぼくなどは大いに反省を促される。


博愛・慈善・孝行などを呼びかける何ヵ条かの徳目はたしかにポジティブである。しかし、あれもこれもそれもと箇条書きが増えるにしたがい、一つひとつの教えの可動力が弱まるのではないか。論理学でもそうだが、「かつ(AND)」で概念を結んでいくと矛盾発生の可能性が高まるのだ。第一に、第二に、第三に……と励行すべきことを並列に置くと、ドサクサにまぎれて個々の教えをないがしろにしてしまう危険がある。いろんなことを前向きにやろうというワンパターンだけではなく、もっとも悪しきことのみを戒めて一意専心の思いで正す方法が再考されてよい。

よき資質があるのに、悪しき一つの習慣や性向が資質の開花を妨げる。多才であってもグズは才を潰す。大人物も保身過剰によって小さな俗物と化す。ぼくは事業にあってはかたくなに長所強化の立場を貫くが、人間においてはまず悪しき欠点を退治すべきだと思う。一芸に秀でていれば、どんな奇人変人でも許されるというのは特殊な業界の話であって、日常生活や仕事ではとりあえず足を引っ張っている愚劣を「してはいけない」と心得るべきだろう。

ちなみに、論理的に書こうと思えば、否定文が増えてくるものだ。「あれかこれか」の岐路でどちらかを消し去らなければ、限定的領域内で論理的展開ができないからである。「あれもこれも」と足し算して書き連ねていくと、いったい何を言いたいのかわからなくなる。つまり、どんどん概念が拡散していくのである。したがって、意見を明快に述べようとすれば、要所要所で無意識的に否定文を用いることになる。Aではなく、またBでもなくというふうに積荷を下ろしていき、結局残るのはCという具合に。自分が書いたり話したりしているのを振り返ってみると、「してはいけない」という方法が目立ってきたと気づく。

否定の否定は肯定?

「これはおいしい」の否定は「これはおいしくない」。そのまた否定は「これはおいしくないではない」。変な日本語になってしまった。もっとわかりやすい説明をしようと思ったら記号論理学の力を借りねばならない。そうすると、わかりやすくしようという意図が裏目に出る。ほとんどの人たちにとって逆に不可解になってしまう。

Aの否定は「not A」。これはわかりやすい。次に、「not A」の否定は「NOT not A」。けれども、この大文字の「NOT」が小文字の「not」を打ち消しているので、差し引きすると、「A」の否定の否定は「A」になるというわけ。「犬である」の否定は「犬ではない」。この否定は、もう一度打ち消すので、「ない」が取れて、「犬である」に戻る。

日常の二人の会話シーンを想定するなら、「犬だね」→「いや、犬じゃないぞ」→「いや、そうでもないか」という流れになって、「うん、やっぱり犬だ」という肯定に回帰する。しかし、ちょっと待てよ。「否定の否定」はほんとうに「肯定」になるのだろうか。論理学では、あることを否定して、さらにそれを否定する人間の心理をどう考えるのだろう。書物の中で翼を休める論理学と、現実世界で翼を広げて飛翔する実践論理が同一のものであるとはぼくには思えない。


誰かが「Aである」と言って、それに対して「Aではない」と別の誰かが異議を唱えるとする。つまり一度目の否定。このとき「Aである」と最初に主張している人の心理に変化が起こるはずである。「Aではない」と否定した人も、Aに対して何らかの心理的・生理的嫌悪が働きはしなかったか。

否定にも、アドバイスのつもりの善意の否定と、論破目的だけの意地悪な否定もあるだろう。たとえば、「この納豆はうまい」に対する小学生の「ノー」と大人の「ノー」は質が違うはずである。心理と生理に引っ掛かる度合いも当然異なっているだろう。

「納豆はうまい」という命題をいったん否定して、さらにもう一度否定すれば、まるで手品のように命題の肯定に戻るというのは書物内論理学の話である。「納豆がうまい? とんでもない! 納豆はうまくない」と否定しておいて、この言を舌の根が乾かないうちに否定して「やっぱり納豆はうまい」を還元するのと、最初から素直に「うまい」と肯定するのとでは、「納豆に対する嗜好の純度」が違う。納豆党からすれば、すんなり肯定されるほうが気分がいいのは言うまでもない。


ところで、自民党の否定は「反自民」なのだろうか、それとも「民主党」なのだろうか。自民党の否定の否定は「自民党」なのだろうか。自民党支持の否定は「自民党不支持」。その否定は「自民党不支持ではない」。これは最初の自民党支持と同じなのだろうか。論理学は時間の経過を考慮しないかもしれないが、命題を否定して再度否定しているうちに現実には時間が経過する。自民党の否定の否定は、もしかすると「投票棄権」の可能性だってある。