問いは人を表わす

1月の会読会でメンバーの一人が問題解決のためのヒューマンスキルの本を取り上げた。彼の書評の中に「重要なのは答えることではない、問うことである」という引用があった。まったくその通りである。問いと答えはワンセットだが、答えは問いに従属するのである。そこで、「問わなければ答えは生まれない」という一行も付け加えておきたい。

問いの中身と形式を見れば、問う人がわかるし、答える人との関係もわかる。ある日突然、仲の良い同僚があなたに「オレは誰?」と聞いてきたら、穏やかではないことがわかる。だいたい二、三問ほど聞いていれば人がわかる。ちなみに、「お元気ですか?」は疑問文だが、めったなことでは実際の健康状態を尋ねてはいない。これは挨拶の変形である。若者の「元気?」は「こんにちは」に近い。英語を学習し始めた当初、“How are you?”に対して、いちいち“Fine, thank you. And you?”とアルゴリズムに忠実だったが、ぼくの問いに答えないネイティブも少なからずいて、これが挨拶の一つであることを知った。

「旅行はどうでしたか?」と聞かれるとぼくは困る。問いが大きく漠然としているからだ。だが、こんな問いには適当に答えておけばいいのである。この問いは社交辞令的な問いであって、興味に揺り動かされた素朴な問いではない。「ありがとう、よくぞ聞いてくれた。ものすごいよかったよ!」と言っておけばよろしい。おそらく相手もこう言うだろう、「へぇ~、それはよかったですね」。


インド料理店で「ナンまたはライスは食べ放題」と書いてあって、ナンを注文した。「または」だから、ナンと決めたらずっとナンだと思っていたが、食べ放題ならどっちでもいいのではないかと思い、ライスを頼んでみたらちゃんと出してくれた。メニューには「ナンとライス」と書くのが正しい。「または」や“OR”は相手に選択を迫る問いだから、「何でもあり」の食べ放題に「または」はめったに使われない。食べ放題でよくあるのは、「または」ではなく「但し」だろう。「当店はテーブルオーダー方式の食べ放題です。但し、食べ残しがございますと……」という場合。いつでも「但し」ほど恐いものはない。

「パンにされますか、それともライスですか?」は希望を尋ねている。希望を聞くのはオプションをいくつか用意できているからであり、また相手に強く関与しているからである。とは言え、オプションが多すぎると、「ランチのパスタは何にされますか?」と聞かれ、「何がありますか?」と尋ねると、50もの種類の写真メニューを見せられて困惑する。多すぎるオプションは、逆に無関心の表われになってしまう。「焼き加減は、どうされますか?」という問いは、通常、レア、ミディアム、ウェルダンの三段階の希望を聞いている。選択肢が二、三に絞られていて、なおかつ聞いてくれるときに、問う側の自分への関心と誠意を感じるのである。

一見すると、「ABか?」は二者択一を迫って険悪な空気を漂わせる。しかし、選択肢であるABが同格同等、かつ満足に関わる時、この問いは相手に対するおもてなしになる。どうでもいい相手や関心の薄い相手に、人はこのような聞き方をめったにしない。もちろん聞くこともある。その時は、どちらを選んでもマイナスになりそうとか、ジレンマに陥って答えられないなどの問いである。「転勤するのか、やめるか、いったいどっちなんだ?」などはこの一例だが、明らかに問う者はいじめかパワハラのつもりである。

問うことの意味

概念の大小関係上、「歩いている」は「動いている」の集合に含まれる。だから、誰かが歩いているという事実は、必然的に動いていることを意味する。逆に、「動いているから歩いている」は確定しない。歩いているかもしれないが、走っているかもしれないし跳びはねているかもしれないからである。したがって、「動いている」という描写に対しては、ふつうぼくたちは「もう少し詳しく言うと?」や「具体的には?」と聞きたくなる。大から小へと概念レベルを下ろしてほしいと言っているのだ。「さあ、移動しよう」に対して、徒歩か電車かバスか車かと移動手段を聞くのは当たり前なのである。

別の例を挙げよう。「品川に出張した、有馬温泉で一泊した、桜島を見学した」がそれぞれ事実ならば、それぞれに対応して東京、兵庫、鹿児島に滞在したのは確かだ。だから「品川で仕事? ほう、つまり東京出張ですな」などという、言わずもがなの推論にほとんど出番はない。ところが、「兵庫に遊びに行っていました」に対して、「あ、そう」では愛想もリアクションも無さすぎて会話の体をなさない。よほど無関心でないかぎり、「どのあたり?」か「海? それとも山?」などと尋ねるものだろう(それが嫌な者は人間関係には向かない)。

自前で推論できるなら、何もかも問うことはない。「詰問」などの強く問いただすという意味もあるが、今はそんな話をしているのではない。会話をしていて、知らないことや推論できないことに出くわせば、もっと知ろうとして聞き、確かめたくて問うものである。「その人は携帯を耳に当てていた」と誰かがポツリと言って黙ったとする。あなたは「何かを話したり聞いたりしていた」と勝手に推論するかもしれない。そう推論して、そこで話を終わらせるのか。それでは真相はわからない。その人が話をしていたか、相手の声に耳を傾けていたか、留守録を聞いていたか、あるいは電話をする振りをしていたか、単なる癖であるかは、確かめないかぎりわからないのである。


繰り返すが、知らないから――あるいは、もっと知りたくて――聞くのであり、確かめたいから問うのであり、さらには、興味があり好奇心がくすぐられるからもう一歩踏み込んで尋ねているのである。このうち、「知らないから聞く」を恥ずかしいものだと見なす文化がわが国にはあったし、今もある。「問うは一度の恥、問わぬは末代の恥」が典型である(この諺は「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」としてよく知られている)。知らないことをそのままにしておくのはよろしくない、だから恥を忍んで尋ねなさいと教えている。問い聞くことの重要性を教え諭すのはいいことである。

だが、ぼくは待ったをかける。これでは、問うも問わぬも、聞くも聞かぬも恥の扱いを受けているではないか。たとえ一度や一時であっても質問行為に恥の烙印を押すことが解せないのである。立派な大人がフランスの首都を知らないことは恥なのか。いや、それは無知なのである。そして、無知であることは必ずしも恥ずかしいことではない。いい歳になるまでパリだと知らなかったことは無知である。だが、「すみません、フランスの首都はどこですか?」と聞くのは恥でも何でもないし、この問いを境目にして無知とさよならできる。

さまざまなジャンルやレベルでぼくたちは、一方で博学、他方無知であったりする。世界一物知りでも、知らないことは知っていることよりも圧倒的に多いのである。知らないことや忘れてしまったことを、知っている人や覚えている人に聞くことの、いったいどこが恥なのか。問い聞く者は、恥どころか、幸福を味わうのであり、他方、尋ねられる者も光栄に浴するのである。あの諺で「恥」と言ってしまっては、見栄っぱりはたとえ一度でも一時でも恥をかきたくないだろうから、結局末代まで知ったかぶりし続ける。恥すらかかない。ただ無知な人生を送るだけである。ゆえに、諺は「問う(聞く)は知への一歩、問わぬ(聞かぬ)は無知の一生」と改めるべきだと思うが、どうだろう。