未成年状態ということ

「情報依存は親依存、友達依存、先輩依存に酷似している。その姿は独立独歩できない未熟な青少年そっくりだ」と、一昨日のブログの末尾に書いた。そして、こう書いてから、カントの啓蒙論にこれらしきものがあったのを思い出し、久しぶりに読んでみた。『啓蒙とは何か』。えらく難しそうな本のようだが、とてもわかりやすい話である。しかも、わずか15ページほどの小論なのだ。

少し前置きしておくと、現在「啓蒙」という用語は微妙な位置にある。これを上位者から下位者への高飛車な教え導きととらえる人たちがいるからだ。実際、ぼくのテキスト中の啓蒙を啓発に変えるよう主催者側から要請されたことがある。その啓発も「知識を増やして理解を深める」というニュアンスだが、これとて「自己啓発セミナー」などのイメージを引き摺っている(『ディベートで知的自己啓発』はぼくの著書のタイトルだ)。結論を言えば、啓蒙という語を使うときは、17世紀末に遡るヨーロッパ啓蒙思想の流れを汲んでおくのがいい。啓蒙に差別的ニュアンスを感じる人々にはそういう立場を見せておくべきだろう。

では、当時の啓蒙思想とはどうだったのか。古い価値観や旧弊を打破して人間的理性を尊ぼうとする革新的なものだったとされる。無知蒙昧はよくない、だからよく啓発すべく教えようというのが啓蒙の原初的意味だった。要するに、闇から光のある方へと導くことであり、無知ゆえの幼さから脱皮して理性的人間に至ろうとする考え方である。錚々たる啓蒙主義哲学者が名を連ねたが、カントもその一人だった。


「人間が自分の未成年状態から抜け出ること」。これがカントによる啓蒙の定義である。カントが念頭に置いているのは、未成年ではなく成人である。成人になっているにもかかわらず、未だに未成年の状態にあるのは、誰のせいでもなく、お前さん自身が招いたものだよ、と言っているのである。いいおとなが幼稚なのは、悟性を用いないから。大雑把に悟性を理性と言い換えれば、未成年状態にある成人は、理性そのものを欠くのではなく、理性を用いようとする決意と勇気を欠いているのである。彼らは独力で未成年状態から脱することはできず、誰かの指導を必要とする。

今はカントの時代よりもさらに成人の幼児化が進んでいるように思われる。ぼくが少し小難しい話をするだけで、もっとやさしく説明してほしいと甘える。いいおとながわずか千語や二千語程度の語彙レベルで何を知ろうというのか。カントは言う、「身を終えるまで好んで未成年の状態にとどまり、(……)その原因は実に人間の怠惰と怯懦きょうだとにある。未成年でいることは、確かに気楽である」。はたして、こういう状態に居続けるとどうなるか。抜け出すどころか、安住し愛着すら抱くようになってしまう。ここにおいて、幼児性と理性は相反することがわかる。成人になっても一人歩きしないのは、カントの指摘するように、本人が責められることなのだが、一人歩きさせなかった取り巻きも遠因の一つに違いない。

「啓蒙を進歩せしめることこそ、人間性の根源的本分」とまで言い切るカント。成人が未成年状態であることは恥なのである。下位者に対しては成熟を示し、都合が悪くなると幼稚へと逃げ込む。理性の非運用は、思考状態に端的に表れる。まず自分で考えない、仮に考えるとしても陳腐な一つの正解探しに終始する。一つの正解を求める教育がいかに青少年を未成年状態に長く止めているかがわかるだろう。自ら解答をひねり出すべく理性を用い、そのつど暫定的な意思決定を下し、後日その判断を自己検証する――これら一連の思考習慣に啓蒙された成人の姿を見る。未成年状態の成人を大勢抱える社会的コストは大きいが、もっと憂うべきは集団的に危機や批判を疎隔してしまうことだろう。