商売人失格

仏教用語としての正用からは外れるが、この話には「因果応報」と刻みたくなる。小さな因果が確実に働いて、いずれ応報になる話。

数年前、兵庫県のとある駅に降り立った。駅前に、最近よく見かけるガラス張りの賃貸住宅ショップがあった。仕事は翌日だが前日入り。宿泊先として指定されたホテルの場所がわかりにくかったので、その店で尋ねた。
店員が「交番で聞きゃいいだろ!」と翻訳したくなるような語気で面倒臭そうに対応をした。おそらく知っているのだろうが、教えてくれなかった。十数秒の親切をしても日銭にはならないだろうが、駅前不動産なのだから交番の役割も担って何か問題が生じるか。地域のナビゲーター役になる絶好の立地にあるのに、なんという機会損失かと思った。

ぼくは残念に思っただけで、恨みも怒りも引きずらなかった。それでも、後日、もしこの方面に引っ越しする人がいたら、躊躇なく「あの駅前の○○不動産には行かないように」と助言する。「あの店」だけで済めばいいが、「あの会社」という烙印を押されてしまうと、同じ会社の(善良かもしれない)他のショップにも影響が出るだろう。
因果関係というものは、辿ればどれも複雑だ。特に今の時代、「一因一果」などのような単純な因果関係はほとんどありえないだろう。だが、この一件に関して言えば、一事が万事になりかねない。
ちょうどその頃は、大阪の例の名門料亭がアウトになった時期に重なる。さんざん良からぬことを重ね、バレたりバレなかったりしながらも息を吹き返して延命してきた。あの料亭は、情けないことに「ワサビの使い回し」というちっぽけな原因で終幕した。社会の堪忍袋の緒が切れたらおしまい。商売人にとって、一人一人の顧客は社会につながっている。PRとは“Public Relations”の略、つまり「社会との関係づくり」にほかならない。商売人の原点はそこにある。

論理が飛躍したり抜け落ちたり

どういうわけか知らないが、ぼくのことをガチガチの論理信奉者のように思っている人がいるらしい。あるいは、「理性と感性、どっちが重要か?」などとしつこく迫ってきて、無理やりに「そりゃ、もちろん理性だよ」とぼくに言わせたくてたまらない塾生もいる。だが、昨日の「川藤出さんかい!」を読んでもらえばわかる通り、ぼくは論理の飛躍や欠如から生まれる不条理やユーモアをこよなく愛している。仕事柄論理や理性にまつわる話をよくするが、四六時中そんなことを考えているはずがない。

「川藤の話、思い出して久々に笑いました。この流れと、今でも使えますね。モルツのコマーシャルは他の作品もよくできていました。一つ、ナンセンスものとして印象に残っているのが、ヤクルトです。たぶんご存知でしょうが、ご紹介しておきます……」

昨夜、ブログを読んだ知人がメールをよこしてきた。彼が察した通り、ぼくはそのコマーシャルを知っていた。知ってはいたが、そうやすやすと思い出せるものではない。これはと思った広告コピーはだいたいノートにメモしている。このヤクルトのもどこかに記した記憶がある(ぼくは二十代後半から三十代前半にかけて広告やPRのコピーを書いていて、名文系・おもしろ系を問わず、気に入った文章を集めていた。この癖は今も続いている)。

知人が思い出させてくれたコマーシャルがこれだ。

「なんで(ヤクルト)毎日飲むの?」
「からだにいいからでしょ」
「なんでからだにいいの?」
「毎日飲むからでしょ」

ナンセンス論理の最たるものに見えるが、「なんで」の問いを「何のために」と解釈したり、あるいは「何の理由で」に置き換えてみると、おやおや意味が通っているではないか。因果関係的には、「毎日飲む(因)→身体にいい(果)」である。目標条件化してみると、「身体にいい」という目的を達成するための条件の一つが「毎日飲む」ということになる。

「ヤクルトを毎日飲む目的は何か?」「健康のためである」――これはよし。
「なぜヤクルトは健康にいいのか?」「毎日飲むからである」――これもよし。

四行まとめて読むとナンセンスだが、前の二行を目的の質問と応答、後の二行を原因の質問と応答というふうに読めば、やりとりはちゃんと成立している。


感謝の気持を込めて、今朝ぼくが送りつけたコマーシャルメッセージ。

「メガネはカラダの一部です。だから東京メガネ」

どうだろう、たまらないほど強烈なロジックではないか。これこそ、居合わせた人々全員をよろけさせる天然ボケの力だ。論拠を抜いてやると文章は滑稽になるのである。 

結果論から学習すべきこと

有名タレントを起用してさんざんコマーシャルを流してきたけれど、今期にかぎって言えば、ほぼすべての有力家電メーカーは赤字計上することになる。テレビ画面の美しさを訴求してきたカリスマロック歌手もカリスマ美人女優も、コマーシャルメッセージがここまで色褪せるとは想像しなかっただろう。変調経済は因果関係を狂わせる。

「しこたま金をつぎ込んでバカらしい。タレントのコマーシャル効果について見直すべきだ。企業は大手広告代理店に踊らされている」という具合に、結果論を繰り出すのは簡単である。言うまでもなく、結果論とは原因を無視することだ。なぜそうなったのかを棚上げにして、いま目の前にある現実のみを議論する。因果関係の「因」を無視して「果」のみを、すごいだとかダメだとか論うのである。

結果論は楽な論法である。「結果論で言うのじゃないけれど、金本は敬遠すべきだったねぇ」とプロ野球解説者がのたまう――あれが結果論。人は結果論を語るとき、「結果論ではないけれど」と断る習性を見せる。


結果論から言えば、タレントに巨額のコストをかけてもムダだったということになる。くどいのを承知で繰り返すと、原因と結果の関係を無視して結果だけを見るならば、大物歌手も大物俳優も宣伝効果がなかったことになる。こうした結果論がまずいのならば、いったいどんなすぐれた別の方法がありうるのかをぜひ知りたいものである。結果論で裁かれるのもやむなしだ。

ぼくは大企業、中堅、中小企業のすべての規模の企業に対して、広告やマーケティングや販売促進の仕事をしてきた(話を簡単にするために、まとめて粗っぽく「広告」と呼ぶ)。景気の良い時も悪い時も、つねに感じていたことが一つある。それは、広告費は効果とは無関係に膨らむということだ。「消費者への情報伝達機能」としてすぐれた広告にするための知恵は投資に見合う。それ以外はすべてコストなのである。

知名度が導入時や一時的な客寄せパンダ効果につながることは認める。しかし、よくよく考えてみれば、知名度を利用する広告ほど知恵のいらないものはない。ほんとうの広告の知恵とは、無名タレントで有名タレント効果を生み出すことであり、極力コストを抑えて広告費を消費者に押し付けないことなのだ。有名タレントのギャラの十分の一、いや百分の一の費用で編み出せるアイデアはいくらでもある。

結果論による批判を真摯に受け止めようではないか。かつての「負けに不思議の負けなし」にすら疑問を投げ掛けねばならなくなった時代だ。そう「勝ちも負けも不思議だらけ」。人類の洞察力の危うさが問われている。結果論から学習すべきこと――それは、いつの時代も、知恵でできる可能性を一番に探ることなのである。