総意誤認する人々

「地下街を歩いている時に地震。そのとっさの状況で「あなたは◎◎◎◎どういう行動をとるでしょうか?」 こう質問されると、ほとんどの人は「たぶん落ち着いて行動すると思う」と答える。周囲を見渡し冷静に判断したのちに非常階段を探すのだろうか。それとも、地下街にいてシェルターになりそうな場所に身を潜めるのだろうか。いずれにしても「慌てふためくと思います」と回答する人はまずいない。

ところが、同じ質問の主語を変えて尋ねてみる。「地下街を歩いている時に地震。そのとっさの状況で、他の人たちは◎◎◎◎◎◎どういう行動をとると思いますか?」 この問いに対して、尋ねられた個人は「慌てて非常出口に向かうだろう」と答える傾向が強いというのだ。「この私を除くみんな」がパニックに陥るのである。自分だけがすました顔をして集団心理の外にいる。

詳しいことは知らないが、この種の話はその分野のいろんな本で取り上げられているに違いない。書名は忘れたが、ぼくもだいぶ前にパニックか心理学かの本で上記の事例を読んだ。コメントをする。総意はこうだろう、但し私は例外――というのはよくあることだ。「ユダヤ人差別を論じる著者のほとんどが、自分だけは差別とは無縁だと決めてかかっている」(オーウェル)ということばもそれを示している。「われわれみんな」という一人称複数で誰かが何かを語る時、当の本人を含めているか除外しているかを聴き分けてみれば、話に違った含みが感知できる。


おもしろいことに、この逆もあるのだ。そして、そこにも人間のエゴイストぶり、我田引水の生き様が見え隠れする。それは他人の態度分析における〈総意誤認〉である。「ある大阪のオバチャンが自分の着ている服の豹柄が全国区であると信じ、それが誤まった認識であることに気づいていないこと」と言えばわかるだろうか。「デパートで午後3時にタイムサービス。奥さん、あなたは行かれますか?」と尋ねたら、「もちろん! みんな大勢行かれますよ」と、先の地下街とは違う答えが返ってくる。「私の思いは総意を反映している」という確信がそこにある。

あることについて感想を述べる時、人は自分の感想をコメントする。「私は〇〇だと思う」というように。同時に、その個人的感想なり意見は、暗黙のうちに「他の人たちも自分と同じように考えている」と推論している。一般的に、自分の考えは総意に近いと思っている。自分の常識は世間でも常識だと信じる傾向が強いのだ。個人の見方が総意と重なれば常識人なのだろうが、周囲を見渡すかぎり、そんなに常識人が大勢いるとも思えない。むしろ総意誤認している人だらけである。ぼくが総意誤認グループの一員かどうかは自己診断しにくい。そういう類のものなのだろう。

「私が考えること」と「他人が考えること」が同じなのか違うのか――当てずっぽうでは困る。ここはちゃんと冷静に弁別しておく必要がある。つまり、持論が少数派なのか多数派なのかを知っておくことは、人間関係や組織力学のバランスをとるために欠かせない。フランソワ・ラブレーの「汝の欲することを成せ」を鵜呑みにしていると、総意誤認が起こってしまうから気をつけよう。他人はあなたの善行を迷惑がっているかもしれないからだ。