売り込まない方法

ほとんどすべての命題は二律背反的に論議することができる。時々の情報に左右されるテーマならなおさらだ。たとえば、「調査から始めよ」と「調査から始めるな」は一般的にはつねに拮抗している。ぼくの場合は、もはやどんな企画も調査から始めることはないが……。

と言うわけで、「売り込まない方法」という主張とまったく正反対のことも書くことができる。明白なのはただ一つ、真理はわからないという点。何をこうしたから売れたとか、売れた理由はこうだなどというのは、すべて後付けであって、終わってみたから言えるのである。ほんとうに売れる理由がわかっているのなら、売る前にその理由を公開すべきだろう。
ぼくたちにできることは、「売れるだろう」という蓋然性に向けて工夫を凝らすことだけだ。そして、うまくいく可能性としては、「売り込まない方法」という選択もありうるのである。
あらゆるメディアを通じて売り込みを競っている状況を見てきて、「商品を売ってはいけない」という思いに至った。とりわけ、モノではなくサービス価値に関するかぎり、露骨に売っている人よりも「さりげなく知らせている人」のほうが健闘していることに気づく。ユーザーでもあるぼくは「売り込まれること」に疲れた。そして、市場に出回っている商品やサービスのうち売り込み過剰なものを差し引いてみた。すると、すぐれたものが浮かび上がってきたのである。

少々強引だが、シンプルマーケティングのジョセフ・シュガーマンなどは「情報の引き算」を提案している。「あれもこれも伝えたい」というがむしゃらさは情報乱舞の時代に目立たない。黙って一点のみを静かに伝えるのだ。ジョー・ジラードの言も借りてさらに言えば、真に売るべきは商品ではなく、商品を扱っている「人」であり、その人が顧客との関係づくりに注いでいる「意」のほうなのである。
誰もが売りたい売りたいと躍起になっている時代に、売り込まないという方法、ひいては「よろしければお売りします」というスタンスがあってもいいだろう。もっともすぐれた売り買いの形態は、売る価値と買う価値が等価として交換されることである。その交換をスムーズにするために売り込んできたわけだが、そうしてきた人たちや企業が必ずしも成果を残しているとはかぎらない。
マーケティングという用語が便利なので思考停止気味に使っているが、売りの戦略という意味で使っているのなら、ここから離脱することも検討すべきだろう。むしろ、古典的な〈パブリック・リレーションズ〉を醸成するほうがこれからの時代にふさわしい気がしている。ひたすらじっくり時間をかけて認知を促し関係づくりに励む。これなら売り込み下手でも謙虚に取り組めるはずだ。