語学学習に学ぶ習得のヒント

『英語は独習』という本を20年前に書いた。初版のみで増刷はない。出版社としては妙味のない企画に終わったが、ぼくとしては語学学習の正論を著したつもりだった。ものを学び頭と身体に叩き込んで自動化するには、〈これ〉しかないと言い切ってもいいだろう。書名は『英語は独習』だが、学習論一般としても成り立つと今でも思っている。

〈これ〉とは「只管音読しかんおんどく」だ。ただひたすら声を出して読むのである。音読ができるためには、英語なら英語の、(1) 発音・イントネーション・リズムの基本が身についていて、(2) 読んでいる文章の意味がある程度わかっていることが前提となる。

何の取っ掛かりもない外国語を朝から晩まで聴いても、一生話せるようにはならない。イメージと結びつかない言語は意味を成さないのである。目の前にモノがありイメージがあり、ジェスチャーがあってシーンがあるからこそ、想像をたくましくしてことばがわかるようになる。母語ですでに概念を形成している成人なら、ふつうに英語の発音ができて文章の意味がわかれば、集中的に大量音読をおこなうと早ければ数ヵ月である程度のことは話せるようになる。


アルファベットを用いる言語のうち、日本人が文字面で発音しにくい筆頭は、実は英語である。英語はほとんどの人が最初に接する外国語、しかも何年もやっているから文字を読めるようになっているが、スペルと発音の関係はきわめて不規則なのだ。フランス語もそのように見えるが、これは英語を先に学んだからそう錯覚するだけで、先にフランス語をやっていると英語の不規則性はなおさら際立つ。

その英語を数年間ふつうに勉強してきた人なら、中学程度のテキストを何十回と声を出して読みこなせば、単語単位ではなく動詞を中心とした構文単位で意味がつかめるようになる。だから文章が話せるようになるのである。とはいえ、どんなに力説しても、「あなたはもともと英語ができたから、早々と話せるようになっただけで、例外ではないか!?」となかなか信じてもらえない。

イタリア語入門テキスト.jpg
イタリア語の教本。只管音読すると、一年も経たないうちにページも剥がれてこのくらい痛ましい姿になる。

ぼくは英語以外では、イタリア語をまずまず話し、スペイン語を聴いて少しわかり、フランス語も少々読める。それぞれ異なったスキルだが、まさに学習方法と費やした時間を反映した結果にほかならない。イタリア語はほんの少しの基礎知識をベースに、誰にも教わらず、ただひたすら音読した。特に1冊目の入門書はおよそ半年間続けた。英国で発行されたイタリア語教本である。この後、むずかしいCDや教本も勉強したが、ほとんど音読はしていない。つまり、最初に只管音読さえしっかりしておけば語学の土台はできるのである。

只管音読という「素振り」

只管しかん〉ということばがある。禅の一宗派では「ただひたすら座禅すること」を只管打坐しかんたざと呼ぶ。只管ということばそのものはどうやら仏教語ではないらしい。「只管○○」と複合語にすれば、「○○のことだけに意識を集中し、もっぱら○○だけをおこなうこと」を意味する。ぼくが大学生の頃に、著名な英語教育界のリーダーが「只管朗読」を独学のエッセンスとして提唱した。「ただひたすら英文を音読する」のである。

もちろん、この種のトレーニングは独学に限定されるわけではない。英語圏には古くから”トータル・イマージョンTotal Immersion)という語学メソッドがあり、日本でも本場から進出して久しい老舗語学学校の看板教授法になっているほどだ。トータル・イマージョンにも「ただひたすらどっぷり浸かる」というほどのニュアンスが込められている。かつてはライシャワー駐日大使ら日本語に堪能なアメリカの高官たちが、本国で日本語トータル・イマージョンの日々を送っていたという話を聞いたことがある。

英語学習において、中学程度の英語をほぼ正しく音読できる成人という前提付きで、上記のような只管音読はきわめて有効な学習方法だと思う。今のようにヒアリング教材がほとんどなかった1970年前後にぼくは毎日欠かさずに何時間も英文を音読していた。「英語圏の人々と対話なり論争なりをする」という無謀な企みがあったので、手当たり次第にいろんな英文を声に出して読んだ。かなり高度なテーマも含まれていた。四ヵ月後には、抽象的な思考も伝えたいことはほぼ言語化することができるようになった。

なお、外国語学習における母語の役割については議論が分かれる。母語禁止と母語活用だ。ぼくはいたってシンプルに考えている。成人の知のほとんどが母語の概念で形成されているから、大いに母語を活用すればよろしい。語学学習者にはさまざまな学習目的があるだろうが、全員に共通する究極着地点は「母語並みの語学力」である。これは、裏返せば、母語以上に外国語に習熟するのはきわめて稀ということにほかならない。


美しい日本語を声に出して読むというのが一時的にブームになった。だが、ブームで終わるのは、それが「美しい」と称するほど生易しいものではないからだ。毎日毎日どっぷりと、ただひたすら音読を続けるのは過酷であり、たとえ母語である日本語であっても、日常会話に堪能なステージから縦横無尽な対話を繰り広げるステージへはなかなか達しない。日々生活を送る中でことばに習熟するだけでは、知的な対話をこなすことはできないのだ。

儀礼的な報告・連絡・相談ばかりで、少しでも骨のあるテーマについて意見交換することができない。来年還暦を迎えるぼくの周囲には年下が圧倒的に多いから、彼らも一目を置いて聞き役に回ってくれる。ぼくとしてはスリリングで挑発的な対話や討論を楽しみたいのだが、彼らの遠慮ゆえか、こちらが一方通行の主張ばかりしていることが多い。愚痴をこぼしてもしかたがないが、対話向きの言語不足、ひいては思考不足も原因の一つである。

言語は幼少期に苦労なく身についてしまうので、成人になると特別な練習をしなくなるのである。対話は何も特別な能力でもないし、数学者のように緻密を極めることもない。アリストテレスも言うように、「弁論家に厳密な論証を要求するのは誤っている」のだ。弁論家の部分を対話者に置き換えればいい。少しは励みになるかもしれない。何はともあれ、母語においてもう一段上の対話力を目指そうとするならば、対話そのものを実践するのが一番。しかし、その実践機会の少ない人にとっては只管音読という素振りが効果的だと思う。