二つの問題と知の分母

問題発生や問題解決などの四字熟語は、問題が歓迎されるものではないことを明示している。「問題が起こりました!」はいい知らせではなく、「問題が解決しました!」はいい報告である。「発生すると困り、消え失せるとうれしくなるもの、なあ~に?」というなぞなぞに「問題」と答えれば正解になる。もっと具体的に、シロアリの巣または借金またはシミ・ソバカスなどと答えてもよい。と言うよりも、{シロアリの巣、借金、シミ・ソバカス、クレーム、犯罪、凡ミス、etc.}を外延的要素として束ねる集合を〈問題〉と呼んでいるのである。

しかし、ここで少し冷静に考える必要がありそうだ。問題は頭を抱えるような困りごとばかりなのだろうか。いつも煩わしい事態を招くものばかりなのだろうか。実は、問題とぼくらが呼んでいるものは、正確には二つの種に大別できる。一つは〈プロブラム(problem)〉で、排除したり解決したりすべき原因を含むもの。そしてもう一つは〈クエスチョン(question)〉で、わからぬことを疑ったり新たな方法を問うたりすることである。便宜上、前者を〈P問題〉、後者を〈Q問題〉と呼ぶことにする。

「胃が痛い状態」はP問題である。P問題ではあるが、素人である本人には原因不明であることが多い。そこで専門家である内科医がその原因を診断し、原因を取り除くべく胃薬を処方したり養生の方法を指南する。P問題で困っているなら、問題の原因を排除する。それによって問題が解決する。原因を究明できれば問題は解決するが、原因が一つであることはほとんどなく、たいていの場合複数因が存在する。


Q問題がP問題とまったく異質であるわけではない。「胃が痛い」と感知した時点ですぐさま医院に駆けつければ、問題はP問題に留まる。「なぜ胃がしくしく痛むのだろう? 昨日食べた何かがよくなかったのか? それともここ最近の暴飲暴食のせいか? いやいや、仕事のストレスで胃が衰弱しているのか? これから胃腸を強くするにはどうすればいいのだろうか?」などと問うことによってはじめてQ問題へと発展し、少しでも推理したり振り返ったりする動機が生まれる。問いを発したからといって答えが見つかるわけではないが、問うことは答えに向けて考えるきっかけを誘発してくれる。

以上のように、Q問題はP問題の原因のありかと関わることがあるが、注意は、原因とは無関係な発見や創造に向けられる。そして、発見や創造への展望は、Q問題に入ることから開き始める。「言い表わすことのできない答えには問いを言い表わすこともできない。謎は存在しない。およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる」(ヴィトゲンシュタイン)という至言を本ブログでも何度か紹介しているが、太字のように断言できるかどうかはさておき、問うことなくして答えが見つかることは到底ありえない。

混沌や無知蒙昧の中から問い(=Q問題)は生まれない。それどころか、P問題にすら気づかない。問題が問題であることに気づくためには、〈非問題〉に関する膨大な知のデータベースが前提になるのである。非問題の知識とは、平常の秩序的・共通感覚的なパターンのライブラリーだ。〈参照の枠組みフレーム・オブ・リファレンス〉としての知の分母と言い換えてもいい。問題意識はここから顕在化してくる。たとえ外部からやってくるトラブルであっても、それがトラブルであることを頭と照合しなければならないのだ。無知にあっては、PであろうとQであろうと、問題が生まれる余地などないのである。ゆえに問題を抱え問い続けているのは、知が健全に働いていることの証左と言える。悩むには及ばない。

ことばは実体より奇なり

ことばと実体には誤差がある。ことばは個性だから奥ゆかしくなったりはしゃいだりする。実体を見ればすぐわかることが、ことばによってデフォルメされてわかりづらくなることがある。その逆に、わけのわからない実体を、存在以上に明快に言い当ててくれるのもことばである。「事実は小説よりも奇なり」が定説だが、「ことばは実体よりも奇なり」も言い得て妙だ。


【小話一】

夏のある日、某大学の車内吊りポスターに目が止まった。キャンパスコンセプト“Human & Heart”を見てしばし固まった。“H”の頭文字を二つ揃えていて見た目は悪くない。だが、このフレーズは「心臓外科」というニュアンスを漂わせる。ならばと外延的に説明しようとすれば、収拾がつかなくなってしまう。あまりにも多様な要素が含まれてしまうからである。

意地悪な解釈はやめる。それでも、このスローガンではインターナショナルな訴求はおぼつかない。「人類と心臓」ではなく、「人と心」を伝えたいのなら、もっと別の英語を模索してみるべきだが、このようなメッセージを大学の精神としてわざわざ口に出すまでもないだろう。この種の抽象的なコンセプトはもう一段だけ概念レベルを下りるのがいい。〈賢慮良識〉のほうが、古めかしくとも、まだしも学生に浸透させたい価値を背負っている。

【小話二】

本の題名は、著者がつける場合もあれば、編集者に一任あるいは合議して決まる場合もある。ざっと本棚を見たら、ぼくの読んでいる本のタイトルには一般名詞や固有名詞だけのものが多い(『芸術作品の根源』や『モーツァルト』や『古代ポンペイの日常生活』など)。次いで、「~とは何か」が目につく。読書性向と書名には何らかの関係があるのかもしれない。

数年前、いや、もう十年になるかもしれないが、頻繁に登場した書名が「○○する人、しない人」のパターン。「○○のいい人、悪い人」という類もある。これも本棚を見たら、この系統のが二冊あった。『運のいい人、悪い人』と『頭がヤワらかい人 カタい人』がそれ。後者の本を見て思い出した。「発想」についての講演を依頼された際に、「主催者はこの本に書いてあるような話をご希望です」と渡された一冊だ。こんな注文をつけられたら、読む気を失ってしまう。ゆえに、当然読んではいない。

やや下火になったものの、「○○○の力」も肩で風を切るように流行した。書棚を見渡したら、あるある。『ことばの力』『偶然のチカラ』『決断力』『ほんとうの心の力』『コミュニケーション力』『読書力』……。後の二冊は斎藤孝だが、この人の著書には「力」が付くのが多い印象がある。熱心に本棚を探せばたぶんもっとあるだろう。「力」という添え文字が、タイトルにパワーを授けようとする著者の「祈り」に見えてくる。

【小話三】

これも車内吊り。雑誌の広告表現だ。「ちょいダサ激カワコーデ」。大写しの女性が本人なのかどうか判別できなかったが、広告中に木村カエラと書いてあったので、読者対象はだいたい見当がつく。オジサンではあるが、この表現が「ちょっとダサいけれど、びっくりするくらい可愛いコーディネート」という意味であろうことは想像できる。「もしチガ平アヤゴーメ」、いや、「もし違っていたら、平謝り、ごめんなさい」。

数字を覚えるためのことば遊びがある。同じ日の新幹線では「0120-576-900」のフリーダイアルのルビを見てよろけそうになった。576を「こんなにロープライス」と読ませ、900を「キミを応援」と読ませる。「こんなにロープライス。キミを応援」と首尾よく覚えても、正しく数字を再現する自信はない。どう見ても、904139である(そのこころは「苦しい策」)。この日、ぼくがネットで購入した切符の受け取り予約番号は41425。講座、懇親会後に二次会があると聞いていたので、「良い夜にゴー」と覚えておいた。うまく再生できた。