雑学・雑文の味方

半月ほど前に「断章」について書いた。何かについて手始めに考えをしたためる手頃さと手軽さに肩入れした。著述を生業とする人々にとって断章は文字によるスケッチの役割を果たす。ノートに書き込んだ文章は再構成され推敲されて本になり、やがてメシの種になる。但し、ほとんどの書物は見込みで刷られ、他の一般消費財と同様に売れたり売れなかったりする。だから、メシが食えない場合もある。

断章と言えば聞こえはいいが、ぼくがノートに書いているのは雑文と呼ぶにふさわしい。断章よりもさらに気楽である。書くことは億劫ではないが、しかるべき専門書を読み、ふんだんに字句を引用して論文をまとめるのは好まない。おおよそ特定分野を体系的に学ぶほど退屈なことはないと思っている。ここにスペシャリスト批判の意図はない。ぼくにはできない、向いていない、その気になれないという吐露にほかならない。

本はよく読むが、変則読書家であるから一冊完読することが稀だ。最初のページから読み始めるが、しばらくするとページ番号にこだわらず、おもしろそうな章へと跳び、気に入った項目を中心に読む。あるいは、よく知らない事柄について知的刺激を受ければ、今度は徹底的かつ集中的に読む。こんな気まぐれな性分だから、学者になれるはずはないし、なろうとも思わなかった。大学の特別講座で何度か講義した経験もあるが、学問的視点で話せないことを痛感した。小器用に知を齧る技だけは持ち合わせているので、学問を志していたら、間違いなく曲学阿世の徒か詭弁師に堕ちていただろう。


浅いが、知の守備範囲は手広いと思うし、好奇心は人一倍旺盛だ。浅いということは、やっぱり体系学習が苦手ということだろう。体系的であるためには深堀する根気が不可欠だ。ぼくにも根気や集中力はあるが、専門の中心部を深くえぐろうとすると疲弊してしまう。逆に、中心から周縁へ、さらに隣接へ、やがて無関係なジャンルへと延伸していくと嬉々として愉快になる。いつも反省するのだが、じっと一つのことを集中的にやり遂げる執着心が決定的に欠けているようだ。

肉汁たっぷりのステーキは口を開いて大きく齧って頬張るが、知識のほうは小さく齧る。小さく齧るから不足を感じる。すると、不足を補おうとして(同じ知識ではなく)別の知識を齧りたくなる。こんな危なっかしい「多品種少量学習」ばかりしてきた。しかし、年季というものは確実に利息をつけてくれるもので、広く浅く散りばめられた小さな知どうしの間に回路ができてきた。この回路が考えることに役立ってくれる。ちっぽけな雑学思考の回路かもしれないが、これが雑文と相性がいいようである。

今年ぼくは五冊目のノートを書いていて、年内にほどよく最終ページを迎えそうである。現在のノートに書いてある事柄は百数十ページ分あってもだいたい覚えている。けれども、三冊前や四冊前になると、まるで他人が書いたノートを読むような新鮮なページにも出合う。時間のできる年の暮れに雑文を読み返すと、なまった頭にはほどよい刺激になってくれるのである。