読書の方法と揺れ動く心

過去に大した読書習慣を持たなかった人が一念発起して本を読もうと決意した。しかし、その気になったものの、どんな本をどのように読めばいいのかさっぱりわからない。そこで手始めに読書術や読書論に目を通すことにした。読んでみると、何だかわくわくしてくる。本をこんなふうに読めばさぞかし楽しいだろうと、いよいよ「その気」になってきた。ところが、読書の方法と推薦図書の書名に精通してきたものの、いつまでたっても読みたい本に手をつけられない。気がつけば、読書術と読書論の本ばかり読んでいた……。


よく似た話に、「○○入門」ならあれこれと手広く読むくせに、本家本元の「〇〇」の著作を一度も読んだことがないというのがある。たとえば「カント入門」や「よくわかるカント」の類いに目を通し、『純粋理性批判』や『啓蒙とは何か』は読んだことがない。と言うよりも、これらのカントの哲学書に挑戦するために入門書や指南書を読んでいるわけでもなさそうなのだ。いずれにしても、誰かがカントについて書いたものとカント自身が書いたものは同じではないことだけは確かである。

読書の方法を説く書物はおびただしく、ぼくの書棚にも、古くは『読書について』(ショウペンハウエル)から最近の『多読術』(松岡正剛)まで十数冊が並ぶ。ただこれらの本の数ほどぼくは熱心な読書術の読者ではなく、誰かの意見を参考にすることはあまりない。二十代まではいろいろと漁って読みはしたが、記憶に残っているのは、若かりし加藤周一が昭和三十年代にカジュアルに書いた『読書術』のみ。そして、なるべく文庫本を買うことと、本を読まずに済ませる方法の二つを学んだ。ぼくにとって偉い人たちが書く読書術の大半は、ぼくの方法を客観的に検証するチェックシートにすぎない。


読書の本ではないが、「読んだ本から山のような抜き書きをして、それに『注釈』めいたものを書き連ねることをやめて伸びやかになった」(鷲田小彌太)などの、読んだものは忘れていいという潔い考え方もある。膨大な知識や情報をアタマ以外のところに蓄積できるようになったから、こういう思い切りのいいことが言えるようになった。アタマは記憶のためにではなく思考のために使え、というわけである。

この考えに与しないわけではないが、メモや抜き書きには効能もある。熱心な読書家でもないぼくには成果の確認という意味もある。それに、思考中心にアタマを使うといったところで、思考には知識が欠かせないわけだから、アタマの中に何らかの読書した情報を蓄えておいて悪いはずがない。


かつて速読術がはやり、昨今では併読術に多読術だ。これらすべてを今も実践しているが、誰かに教えてもらわなくても、読書していれば誰だって速読、併読、多読に辿り着く。同時に、これらと相反する読み方、すなわち精読や熟読や寡読の良さにも気づいてくる。こちらの読み方の延長線上には、必然的に「本を読まずに済ませる方法」も浮かんでくる。

先のショウペンハウエルの本には次の一節がある。

本を読むというのは、私たちの代わりに他の誰かが考えてくれるということだ。一日中おびただしい分量を猛スピードで読んでいる人は、自分で考える力がだんだんに失われてしまう。

さもありなん。一般の読書家はゆめゆめ書物の批評家や職業的読書家や書誌学者のような読み方に影響されてはいけない。一日に一冊読んだとしても、そのこと自体何の自慢にもならない。知を蓄えるためという、ごく当たり前のような読書の位置づけすらたまには疑ってみるのもいいだろう。読んだ本の中身を若干アレンジして披瀝するのか、あるいは書物を固有の思考のための触媒にするのか――この分岐点においておそらく読書のあり方は決定的に違ってくる。