短時間と行数制限の負荷

リテラシー能力や思考力を鍛えるために様々な方法があることを知っている。そして、どんな方法にも必ず大量と集中が関わっているのを体験してきた。「ただひたすら」の境地、只管三昧の世界に通じる方法論である。最近社会人を対象とした講義を受け持つ准教授の話を聞く機会があったが、大学院においてさえ徹底的に大量に読ませ、「なぜ」を考え抜かせ、議論を尽くさせることが必須トレーニングであるという趣旨であった。

その昔、日本とアメリカの国語の教科書を比較して何よりも驚いたのは、内容編集などではなく、分厚さの違いであった。アメリカの国語(つまり米語)の教科書のボリュームを見れば、大量インプットが学習コンセプトであることが一目瞭然。学習と言うものの、まさに「習うより慣れろ」なのだ。つべこべ屁理屈をこねずに、何度も何度も繰り返してパターン認識せよ、というわけである。これは、読み・書き・聴く・話すという言語四技能の”オートマチック化”にほかならない。これに対して、ぼくが義務教育であてがわれた国語の教科書のページ数は貧弱であった。名作の数ページを抜いてきて精細に吟味させ、人それぞれの鑑賞であってもいいはずの文学作品の解釈に「しかるべき模範解答」を発見させようとしたのである。

膨大なルーチンワークの積み重ねの末に運よく〈偶察〉があるというのはよく知られた話だ。もちろんルーチンワークの中身は決して穏やかな取り組みの連続ではない。混沌あり失敗あり絶望あり、なのである。天才を除外すれば、発明や発見における競争優位の原理は明らかに分母の量だろう。分母の膨大な量が分子の一粒の実をらせれさせる。しかし、大量集中の鍛錬に耐えることができるのは若い脳ゆえである。残念ながら、齢を重ねるごとにこうした鍛錬はきつくなっていく。


だが、絶望することはない。幸いなことに、大量集中の代替トレーニング法があるのだ。それは、量の代わりに質へ、集中の代わりに分散へと対極にシフトすることではない。大量に伴うのは長時間であるから、それを短時間に変えればいいのである。短時間に変え、しかも難度を上げるのである。これによって集中密度も高まる。長い時間をかけてルーチンをこなす代わりに、短時間で難度の高いトレーニングを積むのだ。

言いたいことが山ほどある時、到底こなせない時間内で要点を説明しようと試みる。取捨選択にともなう負荷は大きい。また、10010にするというのは、抜き出しだけで事足りるものでもないし、単なる要約で片付く話でもない。たとえば、メッセージの本質を簡潔な概念で、しかも30分ではな3分以内で言い表わすのである(なお、ここで言う概念の説明としては、中島義道著『観念的生活』の「言語によって捉えられたものであり、概念的把握とは言語によって捉える把握の仕方である」という一文が適切である)。

書くことにおいても同様である。『企画書は一行』というような本があるが、さすがに極論だとしても、原稿用紙30枚を5枚にしてみるような急進的な削ぎ落としを試みるのもハードルを上げる効果がある。本ブログの行数が長いという意見をいただくが、ぼくにすれば本来二百行くらい書きたいところを三、四十行に制限しているのである。安直に書いているようだが、短時間でそれなりにプレッシャーをかけているつもりだ。ともあれ、中熟年世代には、時間と行数の縮減によって難度の高いテーマを語り書くことをお薦めする。