豊かなアイデアコンテンツ

見聞きし思い浮かべることを習慣的に綴ってきて約30年。ノートをつけるという行為はある種の戦いだ。だが、無理強いされるようなきつい戦いはせいぜい一年で終わる。習慣が形成されてからは次第に具体的な戦果が挙がってくるから、戦う愉しみも徐々に膨らむ。

これまで紛失したノートは数知れないが、ここ十数年分は連続したものが残っている。誰しも休みなく戦い続けることはできないように、ぼくのノート行動にも断続的な「休戦期間」があった。それでも、しばらく緩めた後には闘志がふつふつと湧いてくる。そして、「再戦」にあたって新たな意気込みを書くことになる。次の文章は16年前に実際にしたためた決意である。

再び四囲にまなざしを向けよう
発想は小さなヒントで磨かれる
気がつくかつかないか それも縁
気づいたのならその縁を
しばし己の中で温めよう

決意にしては軽やかだが、ともすれば情報を貪ろうとして焦る自分を戒めている。縁以上のものを求めるなという言い聞かせであり、気づくことは能力の一種であるという諦観でもある。この頃から企画研修に本腰を入れるようになった。人々はアイデアの枯渇に喘いでいる。いや、アイデアを光り輝くものばかりと勘違いをしている。ぼくは曲がりなりにもアイデアと企画を生業としてきた。実務と教育の両面で役に立つことができるはずだと意を強くした。


アイデア勝負の世界は厳しい世界である。だが、何事であれ新しい発想を喜びとする者にとっては、アイデアで食っていける世界には天井知らずの可能性が詰まっている。そして、人は好奇心に満ちた生き物であるから、誰もが新しい発想に向かうものだと、ぼくは楽観的に考えている。

アイデアは外部のどこかから突然やって来て、玄関でピンポーンと鳴らしはしない。ドアや窓を開け放っていても、アイデアは入って来ない。アイデアが生まれる場所は自己の内以外のどこでもない。たとえ外的な刺激によって触発されるにしても、アイデアの誕生は脳内である。ほとんどの場合、アイデアは写真や動画のようなイメージあるいは感覚質クオリアとして浮かび上がる。こうした像や感じはモノづくりにはそのまま活用できることが多い。

ところが、アイデアの最終形がモノではなく計画や企画書の場合、イメージをそのまま書きとめるわけにはいかない。ことばへのデジタル変換が不可欠なのである。いや、イメージの根源においてもことばがある。ことば側からイメージに働きかけていると言ってもよい。したがって、アイデアが出ない、アイデアに乏しいと嘆いている人は、ことばを「遊ぶ」のがいい。一つのことばをじっくりと考え、たとえば語源を調べたり他のことばとのコロケーションをチェックしたりしてみるのだ。

言い換えパラフレーズもアイデアの引き金になる。よく似たことばで表現し、ことばを飛び石よろしく連想的にジャンプする。こういう繰り返しによって、文脈の中でのことば、すなわち生活世界の中での位置取りが別の姿に見えてくる。適当に流していたことばの差異と類似。ことばが繰り広げる一大ネットワークは、イメージのアイデアコンテンツに欠かせない基盤なのである。

速読と大量刷り込み

速読の話の続き。本をまともに読んだキャリアのない人が、一念発起して読書に向かうとする。このとき、誰かに教わって速読を試みても、ほとんど読めないだろう。何もアタマに入ってこない。文字を読んで培った知識の受容器が小さいから、文字情報を高速処理できないのである。これはコンピュータの処理能力によく似ていて、結局は容量に応じた情報量しか処理できないのである。理解と記憶の度合いは、自前の受容器の大きさにほぼ比例する。

その人が速読の訓練を積み重ねても、見開きページ上での眼球の動きが速くなるだけで、アタマがついていくようにはならない。しかも、理解しなければと焦るほどに読む速度にブレーキがかかってしまう。今さら嘆いてもしかたがないが、結局は「もっと幼少年時代に本を読んでおけばよかった」という述懐に落ち着く。「四十歳からのやり直し読書」のような本がすでに世に出ているに違いないが、四十歳からやり直すなら、「何のために本を読むのか」をしっかりと問い、じっくりと読むしかない。つまり、精読。

ところで、十代前半までの読書習慣はもっぱら環境に左右される。親自身がよく読むとか、親が物語を読んで聞かせるとか、自宅の書棚に本がたくさんあるとかだ。仮に家庭にそんな環境がなくても、友人に本好きがいたり国語の先生が読書を大いに薦めたりしてくれたら、本を読む癖がつきやすい。図書館や町内の書店なども環境要因になる。こうして、幼少年時代の読書は好奇心に突き動かされて、大きな楽しみとなる。楽しいから手当たり次第に読み、速読など意識せずとも、自然と速く読め、かつよく覚えるようになる。これは、ある意味で、脱意識的な大量刷り込みを可能とし、知識や思考の受容器を発達させてくれる。


以上のことは、ことばを覚えるプロセスと同じだ。ぼくたちは人の話を耳から大量に聴き、概念と意味を推理してことばを習得してきた。このような会話における音声と聴覚の関係が、読書では文字と視覚の関係に置き換わる。概念知識と言語体系の中で意味理解が進むのだから、このような習慣を身につけてきた人は、初めて読む内容であっても類推が働く。つまり、アタマの中に理解の手掛かりとなる知と言語がすでに備わっているのだ。密な蜘蛛の巣と疎な蜘蛛の巣とでは、前者のほうが餌となる虫を捕獲しやすいのと同じ理屈である。

読書のスピードは徐々に加速してくるものだ。決してある日突然速読できるようにはならない。幼少時から本に親しんできた人は、速読トレーニングなど積まなくても緩急自在に本を読める。やさしい本なら時速100キロメートルで飛ばすように読み、手強い本なら狭い路地をゆっくり歩くように読む。読書習慣に乏しかった人ほど速読の功を焦る。いきなり高速運転をしてもただ目的地に到着するだけで、理解し楽しむなどの余裕はない。誰もが速読上手な読書人になれるとはかぎらない。

手遅れを自認するのなら、そして義務や見栄で読書をするのではなく、必要や好奇心から読書習慣を身につけようと思うなら、急いで「読後」へと向かうのではなく、「読中」、つまり読むというプロセスそのものにじっくりと浸ることだろう。傍線を引いたり囲んだりとマーキングし、いい話だ、ためになる、おもしろいと思えばそこに付箋紙をくっつけておけばいい。このような精読を続ければ、徐々にスピードが速まっていく。やがて、広角的に文章を拾えるようになり知が起動してアタマが活性化するはずである。きついことはきついが、中年以降の読書習慣の始まりはおそらくこれしかない。