ミスとグズ、または失敗と怠惰

先週の水曜日、塾生Sさんの会社の全社会議の第三部として『広告の話』について講演した。若い社員さんらは仕事のありように気づいてくれたようだ。決してやさしい話ではなかったが、紹介した事例と仕事線上の課題や願望との波長が合ったと思われる。ぼくの出番はそれだけだったので、第一部と第二部での話は聞いていない。懇親会の席で見せてもらった会議資料をちらっと見れば、そこに次の一文があった。社是である。

「ミスには寛容に、怠慢には厳しさを。慣れ合いのない優しさ、責め心のない厳しさ」

生意気なことを言うようだが、ぼくにとっては目新しいものではない。しかし、このメッセージにとても素直に感応できた。なぜなら、そのように生きてきたし、怠慢(そして、その日常化した惰性の延長としての無為徒食と放蕩三昧)を、自他ともに戒めてきたからである。天賦の才があるわけではないし、油断しているとついつい怠け心に襲われる弱さを自覚しているから、たとえ使い古されたことばである「努力」や「精進」をも盾にして怠慢にあらがうしかないと考えてきた。

かつてエドワード・デ・ボノが水平思考(やわらかい発想)のヒントの一つとして、「ありとあらゆる要素を考える」を掲げた。まったくその通りで重要なことなのだが、これはぼくたちにとっては至難の業だ。あらかじめありとあらゆる要素をシミュレーションできれば、たしかにミスは大いに減るだろう。しかし、賢人が何もかも見据えた上でなおも失敗を犯してしまう現実を見れば、凡人の仕事が日常茶飯事的にミスと隣り合わせにあることは容易に想像できる。いくら注意しても「ミスは起こるもの」なのである。

だからこそ、ミスには寛容でなければならないのだ。但し、己のミスの言い訳のために他人のミスに寛容であろうとするのは自己保身である。ミスに対して寛容であるというのは、自他を問わず、仕事上のミスの蓋然性に潔くなれという意味でなければならない。リスク管理に意を凝らしても起こるミス、あるいは複雑な外的要因によって起こるミスに対しては、月並みだが、再発を防ぐ処方しかない。その処方をアタマと身体に叩き込むしかない。


経験を積み熟練度を増すにつれてミスは徐々に減るもので、看過してもいいほど小さくなってくる。しかし、最後の最後まで残るミスの原因は油断であり、その油断を許してしまう慢心と怠惰に遡る。慢心と怠惰は人間の本性の一部だから、つねに見張っていなければならないのだ。だから「怠慢には厳しさを」なのである。ぼくの知るかぎり、怠慢から派生するミスを相変わらず繰り返す人間は、本人の自力による救済は不可能である。誰かが手を差し伸べてやるしかない。とても時間がかかるし徒労に終わる可能性も高いが、放置すれば組織悪や社会悪としてはびこってしまう。

社是の後半の「慣れ合いのない優しさ」と聞けば、「親しき仲にも礼儀あり」を連想する。フレンドリーであることはいいことである。しかし、ついつい甘味成分が過多になって関係がべたついてしまう。お互い相手を理解し優しい眼差しを向けるのはいいが、そこにはさらりとした抑制が働いていなければならない。Sさんとぼくは長い付き合いで信頼関係も強いが、見えない一線を互いに暗黙のうちに了解している。

最後の「責め心のない厳しさ」は人への対峙のあり方にかかわる。自分はその人をどうしてあげたいのか、なのだ。立ち直れないほどこてんぱんにやり込める厳しさも世間にはある。叱責のための叱責、逃げ場のない窮鼠状態への追い込み。困ったことに、自分に甘い指導者ほどが強く相手を強く責める。だが、指導者側の鬱憤発散のための厳しさでは話にならないのだ。

ぼくはと言えば、議論になればきわめて厳しくからい。相手を妥協せずに論破し、矛盾点を徹底的に追及する。理由は明快で、一段でも高みへと成長してほしいからにほかならない。どうでもいい相手に厳しさなど不用だから、議論に引きずり込むまでもないのである。

過剰なる礼讃

さして強い関心もなく、また親しんでもいない事柄だからといって、頭ごなしに否定するほど料簡は狭くないつもりだ。だいいちそんなことをしていたら、きわめて小さな世界でごくわずかな関心事をこね回して生きていくことになってしまう。そんな生き方は本望ではないから、異種共存をぼくは大いに歓迎する。そして、多様性に寛容であるからこそ、自分の存在も関心事も、ひいては意見も主張も世間に晒すことができると考えている。

「ブログを時々読ませてもらっています。ツイッターのほうはやらないのですか?」と聞かれたこと数回。「ツイッターには関心ないのですか?」とも言われた。ツイッターに関しては本も読み、年初に塾生のTさんのオフィスに行って詳しく教わり、その後に食事をしながらIT系のコミュニケーションメディアについても意見を交わした。「ツイッター、いいのではないか」と思ったし、そして今も、「ツイッター、はまっている人がいてもいいのではないか」と考えはほとんど変わっていない。ただ、ぼくはツイッターに手を染めてはいない。どうでもいいなどとは思っていないが、ツイッターをしていない。する予定もないし、しそうな予感も起こらない。

物分かりのいい傍観者のつもりなのに、ツイッターをしていないだけでツイッター否定論者のように扱われるのは心外である。ぼくは自動車を所有せずゴルフもしないが、自動車とゴルフの否定論者ではない。車についてゴルフについて熱弁する知人の話に「静かに、かつ爽やかに」耳を傾ける度量はある。関心もなく親しくもない人間と話をするし食事もする。ごくふつうにだ。しかし、恋い焦がれることはない。強く求めもしないし強く排除もしない。いや、それどころか、存在をちゃんと認めている。共存するのにたいせつなのは、情熱ではなく寛容だと思うのである。


IT関連の知り合いから定期的にメルマガが配信されてくる。一人はかつて親しかったが、ここ数年会っていない。もう一人は一、二度会った程度で、「名刺交換した方に送らせてもらっている」という動機からの配信だ。前者がツイッター礼讃者であり、後者がipad礼讃者である。後者のメルマガはほとんど見ないが、前者には時々目を通す。彼は「ツイッターがすごいのは、世界中の人と出会うきっかけを提供していることだ」と主張する。さらに、「もっとすごいことは、繋がりを維持し続けることができることにある」と強調する。まことに申し訳ないが、本人が「すごい」と力を込めて形容するほど、ぼくにはすごさが伝わってこない。

世界の人々との繋がりを特徴としたのはツイッターが最初ではない。かつては飛行機がそうだったし、電話・テレックスがそうだった。旅をして現地の人々と交流するのも繋がりだろう。実は、繋がりはずいぶん使い古されたことばなのである。しかし、よく喧伝されるわりには、世界の人々は現実的には繋がってなどいない。ツイッターによって具体的にどう繋がっているのか、そして、繋がりとはいったいどういうことなのかが実感としてわからない。彼の言い分はぼくには仮想にしか見えないのである。

最後に「特に書く内容を熟慮もせず、時間的コストもかけず、多くの人と繋がりを維持することができる」と締めくくっている。彼は真性のツイッター礼讃者のようだ。熟慮もせずに書くメッセージをやりとりして、いったいどの程度に世界の人々は繋がることができるのか。ツイッター上だけでなく、安直なつぶやきで日々繋がろうとしている人たちはいくらでもいる。そして彼らは対人関係上もネット上もただつぶやくのみ。その場かぎりの、思いつきのつぶやきごときで世界の人々が繋がるなどということはにわかに信じがたい。

手紙を否定しないように、ぼくはツイッターも否定しない。しかし、構造のうわべだけを過度に礼讃するツイッター信奉者に首を傾げている。