超人的なものの人間味

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血生臭い事件が報道されバカらしい芸能ニュースばかりが流れる今日この頃。本来腰を据えて考えるべきことがおろそかになり、まったくどうでもいいことが取りざたされる。自分の日々の熟慮や行動を棚上げしているかもしれないが、この国のインテリジェンスの劣化を嘆く。
今週ぼくの関心を引き、考察の機会を与えてくれたのがエンデバーだ。ご存じ、ロサンゼルス市街地から展示場へ陸路輸送された話である。
彼は超人さながらあっという間に大気圏の外に出て宇宙に達する。まさにスーパーマンという形容にふさわしい。その彼がロサンゼルス空港からカリフォルニア科学センターに到着するのに、滑稽なほど手間取った。わずか19キロメートルの道のりを毎時3.2キロメートルという、ぼくよりも遅い歩み。しかも、曲がり角で悪戦苦闘しつつ、二日半近くかかってやっとのことで「任務」を完了した。

 いくつもの難題をいとも簡単に克服してきた超人が、舞台を変えてまるで亀のように見えた。宇宙を意のままにした雄姿の微塵もそこにはなく、もがき立ち往生した。ほほう、超人も四苦八苦するのか、所詮超人も「人」だったのかと、泥臭い人間味を感じてしまったのである。
論理の飛躍を恐れずに書くことにしよう。勝手知らない宇宙で何事かを成す前に、やらねばならぬこと、考えねばならぬことがこの地球上にあることを思い知る。究極の問題解決力は地球上でこそ、いや、自分にもっとも近い所でまずは発揮されねばならないのだろう。
もっと能力を伸ばそう、未知なるものにチャレンジしようという意気軒昂に水を差すつもりはない。だが、どうやら問題解決によって実現しようとする幸福のありかは己自身もしくは己のすぐそばにありそうだ。深慮遠謀して時間をかけた結果、巧遅こうち、俗に「ウマオソ」であっては旬を逃す。むしろ、少々ぎこちなくても、身近で小さな問題を人間らしくコツコツと解いていくべきなのではないか。しかも、地上のエンデバーと違って急がねばならない。拙速せっそくという泥臭さにぼくはとても魅力を感じている。これは別名「ヘタハヤ」である。

巧速と拙遅のはざまで

半年とか一年という周期で「やっぱりこれか」と戻っていく場所、いや思想がある。周期と書いたのは、本ブログでも取り上げた覚えがあるからで、調べたらおよそ半年前に書いていた。「人を見て法を説け」がその思想だ。

そこに戻って再認識するのは簡単だが、実際に人の数だけ法を用意するのは至難の業。いや、十人十色のレベルまで細かく注文に応じることはない。それでも、異なる二つの処方箋をひねり出すだけでも荷は重い。一昨日のブログでも書いた「思い立ったが吉日」という、一見ほとんど真理と思えるメッセージでさえ、ある人にとっては法にはならないことがあるのだ。

誰が考えても、「巧速こうそく」にはケチをつけにくい。こんなことばは辞書にはないが、「上手で速い」というつもりだ。これに対して、これまた辞書には載っていないが、下手で遅いという意味の「拙遅せっち」を歓迎する人もいないだろう。これら極端な二つの概念の中間にきわめて現実的な「拙速せっそく」と「巧遅こうち」が存在する。いずれも辞書ではちゃんと見出しになっている。


スピード至上主義は拙速(ヘタハヤ)の原因になり、旬や期限を意識しない品質至上主義は「巧遅」(ウマオソ)につながりかねない。急いて事を仕損じてはいけないから、事をしっかりとやり遂げることを優先すると、たちまちタイムオーバーになってしまう。それならヘタハヤのほうがまだしもましだったかと悔やむ。孫子などは、「巧遅は拙速にしかず」と、出来がよくて遅いよりも、出来は悪くとも速いほうがいいと教えている。

しかし、この言をつねに金科玉条とするわけにもいかないのだ。「拙速>巧遅」を認めるにしても、巧遅と比較せずに拙速だけを見たらどうか。スピードに価値を置くぼくではあるが、みすみす手をこまねいて拙速の事態を招くことはないと思う。時間との相談になるが、そんな危険性を秘めた人にはいったん〈エポケー〉する法を説くべきである。

エポケーは文脈や使用者によって微妙に変わることばだが、「敢えて判断停止状態」をつくるという意味である。現象学では「括弧に入れる」というしゃれた言い方をする。仕事においてスピード優先が過ぎている? それならエポケーしよう、つまり「いったん留保して見直そう」という意味でぼくは使っている。現実をしっかりと認識し直してからでも遅くないのなら、独りよがりで稚拙な判断に「ちょっと待った」をかけるべきだろう。

孫子には申し訳ないが、この時代、「出来は悪くとも速い仕事」に全幅の信頼を置けない。ぼくは顧客の企画をお手伝いするにあたって、もちろんアイデアを出しコンセプトを創るが、ここぞというときはエポケーをかける。エポケーはぼくの利を遅らせる。場合によっては、相手が機会損失だと怒りだして利さえも失う。それでも、ぼくにとってエポケーは協働における欠くべからざるサービスなのである。