何かにつけて「ことば」に還る

私塾の最終講。まだだいぶ先だが、構想からすでに構成に差し掛かっている。「市場」というテーマを演劇的手法で展開してみようと一度は忘我の境に入りかけたが、しばらくして断念。今のぼくには荷が重すぎる。さらによく熟成させて次の機会に挑むことにした。ちなみに「市場」イコール「マーケティング論」ではない。現代人にとって、市場は「社会」の別名になりつつある。社会の大部分は生活や仕事のための売買活動を動因とし、貨幣と商品・サービスの頻繁な交換を目立った特徴としている。

市場をさらによく見つめるために、いくつかのキーワードを思いつくまま並べてみた。欲望、過剰、場、価値、貨幣、共生、大衆、交換、視線、構造、消費、生産、所有、責任、テクノロジー、情報……。市場に関わりそうな人間考察のための術語群。他方、マーケティング分野に切り込めば、さらに現場、製品、サービス、記号、広告、調査、対話、競争、コンセプト、文化、相対主義、エコロジーなどが浮かび上がってくる。個々には見慣れた用語である。但し、見慣れたことばをありきたりに解釈していては新鮮味のある視点は見つからない。

「千葉県警は容疑者を死体遺棄の疑いで詳しく厳しく追及していく方針です」と現場からのレポート。「詳しく厳しく」と強調すればするほど、「適当に甘く」が反転作用として浮上してくる滑稽さ。取り調べは原則的に詳しくて、かつ厳しいはずである。つまり、追及には精細と厳格(または厳密)が折り込み済みなのだ。追及に余計な修飾はいらない。このように使い古されたことばとその文脈構築には注意が必要。市場について語るときはこれと逆の用法に目を向ける。すなわち、「言わずもがな」で済まさない工夫がいる。


小林秀雄は「言葉に惑わされるという私達の性向は、殆ど信じられないほど深いものである。私達は皆、物と物の名とを混同しながら育って来たのだ」と書いている(『考えるヒント2』)。また、別の箇所では「言葉の生命は人が言葉を使っているのか、言葉が人を使っているのか定かではないままに転じて行く」とも言っている。大量にメッセージを発する機会の多いぼくなどは、とりわけ話しことばをつい希薄に使ってしまっているかもしれない。差異への神経も鈍感になりがちだろう。油断をしていると馴染んだことばほど既成概念を押し付けてくる。そうなると、もはやことばの使い手などではなく、ことばを主と仰ぐ奴隷に堕している。

言語のダイナミックな変容に大らかであってもいいが、あまり物分かりがよすぎて易々と免疫ができてしまうのも考えものだ。辞書の教えるところと自分自身の感知態勢は違っていてもいい。たとえば、非生命の複数表現としての「ものたち」という言い方にぼくはさっぱり親しめない。「帰国子女」もだめである。海外で生まれて中学になって初めて来日しても「帰国」? 子女にも違和感がある。誕生日は「誕生記念日」がいい。誕生は一度きりのものだから。可視化の意味で使う「見える化」も苦手。周囲はもちろん世間でも広く使われているので耳にするのはやむをえないし、慣れもした。だが、ぼくが使うことはないだろう。

頑なに言語論を展開しているつもりはない。ぼくは言語変化の現象にはリベラルなのである。新語も歓迎の口だし、自分でも新しい表現に手を染める造語派である。にもかかわらず、いや、だからこそ、手垢がついて一義のみを重く背負っていることばの扱いには慎重にならねばならないと思う。とりわけ経済やマーケティングにからむ用語には不発弾が潜んでいる。信管に触れることなく、うまく新しい意味を付加できるかどうか……これが当面のぼくの課題である。

差異は類似によって成り立つ

類似は「よく似ていること」を表わす。「違いがわからないほどとてもよく似ていること」を酷似と言ったりもする。さて、了解しておくべきことがある。類似や酷似ということばを使うかぎり、いくら頑張っても「同一」ではないのである。似ていることは認めるものの、ごくわずかながらも差異があるということだ。

自社の商品が他社の商品と同一視されたり混同されないために、特徴に固有の工夫を凝らしたりマーケティング上の訴求点を変えたりすることを〈差異化〉という。言うまでもないが、誰も好んで短所によって差異化しないだろう。他商品にない優位性によって差異をつけなければならない。

しばし商品から離れて、ことばの差異を考えてみる。ことばの差異はもはや古典的な哲学命題になるのだが、いま存在して使われていることばの間には差異がある。いろいろな概念や事物も、それらが存在しているのは別の何かで代替できないからだ。ことばには同義語や類義語がおびただしいが、たとえ言い換え可能な表現があっても、意味もニュアンスも重なることはない。仮に二つのことばが完全に重なり、いずれかの頻度が異様に高くなれば、もう一方が存在している必要はない。やがて消滅することになるだろう。ことばはこのようにして生成消滅を繰り返してきたはずだ。


商品の差別化に戻る。ある洋菓子店〔A〕のケーキが優位で、同じ町内の別の洋菓子店〔B〕が苦戦しているとする。わざわざ想定しなくても、実際によくある話である。B店がケーキで競合するのをやめて、和洋折衷の新しい菓子を作れば、これは差異化と言うことができる。しかし、この差異化、勝負を避けた差異化である。そして、類似点のきわめて少ない差異化なのだ。これも差異化には違いないのだが、カテゴリー違いの差異化で競合はしないかもしれないが、ケーキでの劣勢は相変わらず続く。

なぜ差異化ということばでなければならないのか。カテゴリーはもちろんのこと、商品もA店とB店で酷似しているからこそ、差異に意味があるはずだ。類似したり共通したりする特徴が多いからこそ、ほんのわずかな差異が優劣を決するのである。

B店が和洋折衷の菓子で地元の市場を創れれば、それはそれでよし。しかし、A店が類似商品でその分野に参入してくるかもしれない。結局は逃げることができないだろう。同じ洋菓子店として、生きるか死ぬかは大げさだとしても、日々一喜一憂の勝ち負けを体験し続けなければならない。

あまり似ていない兄弟だが、たとえば眉毛の形がそっくりという類似を発見したことがあるだろう。但し、こういうのをあまり差異化とは言わない。むしろ、うり二つで見分けのつかない双子の間に、一点決定的な違いを見つけるほうが真性の差異化なのである。   

「一人歩き」を見直す

「一人歩き」と言っても、実際の歩行とは関係ない。使い慣れたマーケティング用語が勝手に一人歩きしてしまっている話。

「市場の動きをよく見て」「顧客の立場から言うと」「ニーズはいったい何か」……こんな言い回しが比較的多く飛び交う環境にいる。振り返ってみると、自分自身がこうした表現の発信者であることも少なくない。ところが、ここ数年、講演や会議や打ち合わせで、この種のことばを使うにつけ聞くにつけ、何かが引っ掛かってしかたがない。

その引っ掛かりが、暗黙の前提や相互了解から来ているらしいことがわかった。いちいちことばで説明しなくても、「市場は存在」し、当然ながら「顧客の立場は存在」し、「ニーズも存在」する。マーケッターや企画者はほとんど疑念もなく、このような姿勢を共有している。そして、お互い十分にわかったつもりになって、もはや定義や存在を再確認しようとはしない。気がつけば、概念が一人歩きしているではないか。

マーケティング、いや、もっとくだけて「商売」と言ってもいいだろう。ひょっとしてあなたは、商売に理屈を持ち込んで議論しても勝ち目がないことを知っているがゆえに、「商売は理屈じゃない」という持論側に立たされてはいないだろうか。なるほど、「商売は実践あるのみ」という定説には逆らいにくい。しかしながら、それは市場も顧客もニーズもわかっているからこその実践なのであって、そうではない状況では理屈や理論なくして商売を考えることはできない。理屈がなくても今日一日の商売は実践できるが、理屈を抜きにしては明日以降の商売は語れない。

ぼくたちは、市場について、顧客について、ニーズについて、「理屈抜きに」――あるいは「もはや問う必要もないほどに」あるいは「さも当然かのように」――よくわかっているのだろうか。非力を認めざるをえないが、たぶんノーである。


通常数百個しか売れない商品が「どういうわけか」1万個売れた。望外の幸せはマーケティング的に説明がつくか? それは市場が成長した証か? この市場には魅力があるのか? 自社に参入適性はあるのか? ここで言う市場とは1万人の人々から構成される場か? 機会か? それともニーズか? そうでなければ、いったい何なのか? その商品によって1万人のユーザーはどんなニーズを満たしたのか? 1万人に共通する顧客特性はどう割り出すのか? 割り出せはしない、しかし特性がバラバラだということはわかった、では、それはいったいどんな次の手を示唆しているのか? ニーズは一様だったのか? そのニーズはどうすれば知りうるのか、アンケートで聞いてみればわかるのか? 「なぜこの商品をお求めになりましたか?」と訊ねて、消費者はその「なぜ」を的確な言語で表現できるのか? 仮に文章で書いてくれたとして、それをそのまま鵜呑みにできるのか? あるいは、その文章から市場の、顧客の、ニーズの何を読み取るのか?

機関銃の弾のごとく”?”を連ねてみたが、考えてみれば、市場の、顧客の、ニーズの何が真であるか、ほんとうにぼくたちはわかっているのだろうか、いや、わかることができるのだろうか。「どこまで行ってもわからない。わからないからこそ、徹底的に客観的に問うべきだ」。こう考えて、マーヴィン・バウワーは「マーケティングとは一言で言えば、『客観性』だ」と達観したのだろうか。

客観性は主観性と二項対立の関係にある。絶対的な客観性ならば、主観性を消去しなければならない。それは「無我」を意味する。マーケティングとは無我の心境なのか。自分が考える市場や顧客やニーズと、実体としての市場や顧客やニーズは一致しているのか。こんな視点に立つと、まるで「現象学」みたいになってしまうが、主客の一致などというものが商売に存在するのか、ひいては「顧客のニーズを踏まえて」とか「顧客サイドに立って」などということが実際にありうるのかどうかは、あらためて問い直すべきテーマだろう。

何が真理かは、結局マーケッター自身が自分の眼力によって見極めるしかない。市場や顧客やニーズのところに真理があるのではなく、したがって、調査はもちろんのこと、客観的視点にも限界があり、ゆえにマーケッターは市場や顧客やニーズを自分のアタマの中で想定し、編集し、構築、検証、再構築するしか法はない。現在、ぼくはこの方向性で「概念の一人歩き」に見直しを加えつつある。

「誰にとって」という基本的な視点

私塾の最終講で「マーケティングの古典」を紹介し、現在にも生かせる普遍的な考え方や有効性を探ってみた。一時間ちょっとの講義のあと、三人の塾生に自社のマーケティング戦略について発表してもらった。一事例につき、発表15分、他塾生からの質疑応答10分、5班に分かれての事例討議が10分、各班からのコメント発表2分、ぼくの総括講評が5分という流れである。

事例の発表や意見交換を通じて、アタマではわかっていても、なかなか実践できない事柄がいかに多いかということに気づく。それは、ぼく自身にとっても歯がゆくも困難なハードルである。しかし、みっちり5時間半の中で、成功図式とまでは言えないまでも、成功するために踏まえるべきパターンらしきものがシンプルに浮かび上がってきた。


市場にはいろいろなニーズやウォンツが渦巻いている。なくては困るモノやサービスへのニーズから、なくてもまったく困らない贅沢なモノやサービスへの欲望に至るまで、消費のステージが何段階もある。そして、すべての段階において、消費行動の多様化と高度化は著しい。消費行動の多様化は「顧客の絞り込み」を求め、高度化は「イノベーション」を求める。したがって、企業のプロフェッショナルにとっては「誰のために、どのような新しいモノ・サービスを提供できるか」が命題になってくる。これが、よく知られた「ポジショニング発想」である。

もう一つ、基本の基本となるのが、「ユニーク・セリング・プロポジション(Unique Selling Proposition=USP)」。「固有の売りのうたい文句」というニュアンスになるだろうか。もう半世紀も前に生まれた、「この商品を買えば、こんな利点がある」というマーケティングのコンセプトだ。この考え方は後々に「自他の差別化戦略」につながってくる。

たとえば、二店の焼鳥屋がいずれも「ジューシーで歯ごたえのよい肉質」をアピールしたら、もちろんそのことは利点ではあるけれども、どちらの店を選ぶかという決定要因にはならない。雰囲気の良さを想像させる店名、店構え、旨さを際立たせるタレや塩、価格など、他店にない固有の利点を認知してもらわねばならない。「この店に入れば、ここが違う」という差異化のためには、どの顧客にとっての利点なのかというポジショニングも絡める必要がある。


カフェのRサイズ200円、Mサイズ250円、Lサイズ300円。サイズの呼び方や値段はそれぞれ。これは端的に三種類のニーズに対応している(つもり)。価格とサイズ案内のMサイズのところには「Rよりお得なサイズ」と書いてあり、サイズのところには「さらにたっぷりサイズ」とある。いずれの文言も「利点」を訴求している(つもり)。

だが、人間心理の研究不足である。コーヒーは嗜好品である。だから50円払ってRにして「お得なサイズ」という思いにはならない。「どうせなら多めに」という顧客もいるが、最初からRに決めている客には店側が訴えるMLの利点は伝わりにくい。嗜好品は、量が多ければ多いほどいいというものではないからだ。これは、昼にざる蕎麦を食べに行って、50円アップで大盛にするのとはちょっと違う。一般的に「増量または減額」が得の理論だが、商品によって変化する。エステやマッサージは「時間延長」が得、交通機関は「時間短縮」が得。とはいえ、顧客次第で絶対ではない。

私塾の塾生は、配付資料を2枚増量しても誰も感涙極まらない。枚数が少々減っても、あるページに目からウロコのすごいことが書いてあれば、そこに利点を見い出す。「本日は特別に講義2時間延長のおまけ!」と利点を売り込んでも、「定時に終わって、メシにでも行きましょう」という塾生が大半だろう。平凡な帰結になるが、時代の、特定の人間の、心理と具体的なニーズ・欲求に正確にマッチする利点探しを大いなる想像力で極めるしかない。「誰にとって」という視点から始めることは、証明済みの法則と考えてよさそうだ。