「一生に一度は」という軽さ

先週、久しぶりにTBS『世界遺産』を見た。劣化が著しかった壁画『最後の晩餐』。その大修復は1999年に完了した。要した歳月はなんと22年! しかも、その修復を手掛けたのはたった一人の女性であった。その女性が歴史上の名画誕生と再生のエピソードを語った。

教会の壁画のほとんどは漆喰の上に顔料を塗って仕上げるフレスコ画で描かれる。半永久的に保存可能だ。但し、漆喰が乾ききる前に手早く絵を描かねばならず、また色の種類にも制約がある。レオナルド・ダ・ヴィンチは遅筆だったため、フレスコ画を苦手としていた。しかも、丹念に多色を重ねられないのも彼の嫌うところだった。したがって、当時としては珍しく晩餐をテンペラ画で描いたのである。見る人すべてを唸らせる名画になりえたが、手法的には完全に失敗だった。描いてから数年後には絵具が剥がれ始めたのである。

番組を見ていて、200610月のミラノを思い出した。『最後の晩餐』見たさにサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会まで足を運び、案の定「予約なしでは入れない」と断られた話。本ブログでもその話を書いた。番組で女性ナレーターが「一生に一度は見ておきたい名画」とさらりと言うではないか。その通り、今度ミラノに行く機会があれば、準備万端何ヵ月も前に日本で予約しておこうと思っている。


と同時に、別のことも頭をよぎる。そのような「一生に一度は」と修飾すべき体験の数々を強く願いながら、どれだけ未体験のままにしてきたことか。怠慢もあるだろう、時間不足もあるだろう。いや、そんな一生に一度の願いが分不相応に多すぎるのだろう。事は、世界遺産クラスの対象ばかりではない。一度は訪ねておきたい、一度は食しておきたい、一度は見ておきたい、一度は読んでおきたい……数え上げればキリがなく、歳を重ねるごとにそのような願望が増え続けるばかりである。

トランジットしたことはあるが、ぼくは上海の街を訪ねていないし、ドリアンなる果実を食べていない。『モナリザ』は見ているが、『最後の晩餐』を見ていないし、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいない。こんなことを言い出すと、訪ねていない、食していない、見ていない、読んでいないほうが圧倒的に多いから、途方に暮れてしまう。加えて、「一度きりでほんとうにいいのか」と問いかけてみれば、「できれば、もう一度」という願望も膨らみ続けていることがわかる。「一生に一度体験」と「一生にもう一度体験」を足してみれば、一生ではとても足りないのである。

好奇心は飽くなきまでに「せめて一度」を求める。そして、そのような体験を望みながら、既決ボックスの件名数を未決ボックスの件名数が凌駕していくのを傍観している自分がいる。気がつけば、貴重な時間を費やすべき価値ある「一生に一度」がとても軽くなっているではないか。一生に一度という最上級の評価が安値になってしまっているのである。五万とある一生に一度の願望をうんと目の細かいフィルターにかけて、希少体験を絞り込むべきなのだろう。

 そうしてみた時、それでもぼくは『最後の晩餐』の鑑賞へとおもむくだろうか。