やめられないこと、続かないこと

一ヵ月ほど前の日経のコラム記事に、劇作家の別役実が随筆に書いた話が紹介されていた。それによると、別役は毎日186回タバコをやめようと考えるらしい。どんな計算でこの微妙な数字になるのか。一日360本吸うのだそうである。ポケットから箱を出し一本取り出すときに「やめよう」と思い、くわえるときにも「やめよう」と思い、火をつけるときにもう一度「やめよう」と思う。一本につき3回やめようと思うのだ。それが60本だから180回。あとは、店でタバコ代を払うときと品物を受け取るときの2回で、これが3箱なので計6回。

一年で67,890回もやめようと考えるのだからすごい。さらに、それだけ考えるにもかかわらずやめないのがもっとすごい。タバコや酒などの嗜好品の常習性は周知の通りだが、やめようとしてやめられない習慣は誰にもある。やめようとかやめたいと思いながら続けてしまう執着力と言うかエネルギーが、続けたいと思いながら続かない対象にはなぜ働かないのだろう。やるぞと決めたストレッチ体操が続かないのに、かっぱえびせんはなぜ「やめられない、止まらない」のだろうか。不思議である。

「あきらめましたよ どうあきらめた あきらめきれぬとあきらめた」という都都逸がある。未練心をユーモラスに紡いでいるではないか。タバコか酒か博打か忘れたが、「やめました ○○○やめるの やめました」というパロディも何かで読んだことがある。ぼくたちは欲望に満ちていて、新たにチャレンジしたいことがあれこれとありそうなのだが、そっち方面は続きにくく、また最初の第一歩が重くて踏み出せない。他方、悪しき習慣と自認していることがなかなかやめられない。「や~めた、真面目に働くの、や~めた」というのはありそうだが……。


このブログで時々取り上げる読書やノート、さらには語学や音読訓練などの習慣形成について、よくコツを聞かれる。習慣形成全般について語る資格はぼくにはない。続けていることよりも挫折経験のほうが多いからだ。夏場になると毎年ヨガを取り入れた経絡体操を3ヵ月くらい朝夕やってみるのだが、秋が深まると億劫になって挫折する。こんなサイクルが数年続いている。その他いろいろ、うまくいかない。

世間では軽々と「継続は力なり」と言うが、毎日5分、一日1ページを甘く見てはいけない。そんなに易々と達成できるなら、この格言の発案者は「継続は力なり」などとは言わず、「継続は誰でもできる」と語ったか何も言わなかっただろう。継続にはある日の一頓挫がつきものである。その一日を例外として処理できれば、継続心を「断続的(切れたり続いたりの)状態」に止めることができる。問題は、その一つの例外が二つ、三つとなって常態化してしまうことだ。つまり、「たまたまできなかったという反省」から「やっぱりできそうもないという信念」への変化が起こるのがまずい。

だから、三日坊主は最初から「継続は力なり」などと力まないほうがいい。いきなり晴天を望むのではなく、「晴れ時々曇り」あたりからスタートすればよろしい。「切れたり続けたりは、何もしないよりもまし」という心得である。以上がぼくなりのコツの薀蓄である。いや、実はコツなどではない。マズローの欲求階層的に言えば、最上位である「自己実現の欲求」などを持たないのが賢明だ。むしろ、最下位の「生理的欲求」にしてしまうほうがいい。そう、トイレに行くように続けるのである。