数字に一喜一憂

学力テストの成績順やFIFAランキングが上下しただの、業績がどうのこうのだのと、数字に一喜一憂する根強い国民性。どんなことでもそうだが、頑張って順位を上げようとしているのは自分だけではない。他人も他社も他国も頑張っているのだ。たとえば超一流どうしが最大限の努力をしてぶつかり合っても、一方が上位になり他方が下位になる。同様に、広い世界で様々なジャンルで凌ぎを削れば、ランキングの順位が変動して至極当然なのである。

「負けられない試合がある!」などと川平慈英がいくら叫んでも、負けるときは負ける。その試合は相手にとっても「負けられない試合」なのであり、相手も必死なのである。企業だって同じだろう。シェアナンバーワンを目指すかどうかはともかく、どんな会社も負け組であってもよいとは考えない。企業努力に応じた成果を期するのは当たり前である。会社は数字に一喜一憂する場ではなく、「よい仕事」を実践する場でなければならない。その結果としての数字であり順位であるはずだ。

にもかかわらず、「中国に抜かれた」だの「43年ぶりに3位に転落」だのとがっかりするのはどういうわけか。時事通信が214日に配信した、「日本の名目GDPが世界2位から3位に転落して、中国に2位の座を明け渡した」というニュースのことである。居直るわけではないが、抜かれて何がまずいのか。真にまずいのは、他国にGDPで抜かれたことではなく、デフレ傾向で経済が長期的に低迷している状況であり、政府も国民も方策を講じる熱気に包まれていないことである。


よく考えてみるいい機会だと思う。世界一の人口133千百万の国が、世界10位の人口127百万の国をGDPで上回ったという事実がそこにあるのみ。よくぞこんな小さな国土の日本が43年間もドイツやフランスや英国よりも上位の2位を維持してきたものだ。驚くべきはむしろこちらのほうである。去る22日に更新されたFIFAランキングで日本は過去最高の17位となったが、この数字を誇らしく思うのなら、GDP世界3位を百倍以上誇っていい。いや、GDPなどどうでもいいと割りきっても別にかまわない。

人口相応に世界の10位くらいの経済力で結構、生活の質や幸福度さえ高ければそれでよし、という価値観もありだ。「2位じゃダメなんですか?」と問うた蓮舫女史は、このGDPの結果に対して「2位でなければいけないんですか? 3位じゃダメなんですか?」と言ってくれるだろうか。与謝野氏が記者会見で「中国経済の躍進は隣国として喜ばしい。地域経済の一体的に発展の礎となる」と語ったが、負け惜しみでないことを希望する。

「数字に強くなれ」とか「数字に弱い経営者は失格」などと説教するコンサルタントがいる。数字信奉者のほとんどは、数字以外の諸要素で価値判断ができないから、明々白々の数字に「逃げている」のである。数学は楽しい学問だが、数学と数字は違う。プロセスなどに見向きもせずに、結果としての数字だけに一喜一憂するのは幼いと言うべきだろう。質の話をするたびに、それを数字で示せと驕り高ぶられるのはやるせない。

時代は重厚長大ではなく軽薄短小と言われて久しい。これは、GDPに象徴される量から、数値化不能な質への転換を意味したはず。わかってはいるけれど、頭の中で数量が依然と支配的なのは、質の指標を示す側の想像力不足にほかならない。世界幸福度ランキングや住みやすい街ランキングのような、質の表現を数字に依存しているようでは話にならない。脱ランキング発想して初めて見えてくるものを探求せねばならないのだ。

人それぞれの難易度感覚

Nさんが「前回の哲学の話はものすごく難しかったが、今日の広告の話はよくわかった」と言えば、Mさんは「ぼくは前回はよくついて行けたが、今日の分野は奥が深くて難しさも感じた」と言う。二人はぼくの私塾の同じ講座について語っている。「そんなもの、人それぞれが当たり前。得意不得意もある」と片付けてもいいが、単にケースバイケースだけで事を済ましていては進歩がない。ゆえに少考してみる。

仮に二人が同じテーマに関して「難しい」とつぶやいても、その難易度感覚が同じであることはない。そして、一方がその分野を得意とし他方が苦手としている現実があるとしても、いずれもがそれぞれの難易を感じることがあるだろう。人にはそれぞれの難易度感覚があるのは間違いない。しかし、その難易度を表現することはできないし、ぼくが彼らの難易度感覚を精細に突き止めることなど不可能だろう。

英語で生計を立てていた時期に超難解とされていたソシュール言語学を勉強してみたが、初耳で目からウロコでポカンと口を開けてしまう内容だったからこそ、砂地が水を吸うようによくわかったという経験がある。逆に昨年から再読し始めた老子などはあれこれと本を読めば読むほどますます混乱して、ぼくにとっては難しさが増している。いったいぼくの知はいずれに深いのか。難易度感覚は実際のぼくの理解度に比例しているのか。ともあれ、ぼくはそのことを楽しんでいる。


哲学に「他者問題」や「彼我問題」というテーマがある。人ははたして他人のことがわかるのか、もしわかるのなら、どこまでわかるのか。いやいや、他人のことなどわからない、わかるのは自分のことだけ。いやいや、人は自分のこともわかっていないのではないか……などと考えてみる。もう一歩踏み込めば、他人の何がわかり何がわからないのかが浮かび上がる。哲学的に考察したらキリがないが、現実生活にあっては「人は他者がわからない。ましてや他者の心理や気持などはわからない」とぼくは割り切っている。

妙なもので、わからないと割り切るからこそわかろうと努める。とりあえず話し合う。議論もする。他者をわからないとクールに構えるぼくは結構他者理解に努力をしているつもりだ。むしろ、人同士は心が通い合い自然とわかるものだという連中のほうが油断して、誰のことも自分のこともわかっていないことが多い。彼らと話をしても、何も証明しないし、ただひたすら他人の心がわかると言うばかりだから、そんなものを信用するわけにはいかないのである。

難易度感覚はたしかに人それぞれだろう。しかし、難易度感覚に左右されることはない。それは理解度の最大瞬間風速センサーのようなものだ。難しい易しいと感じたことは事実だとしても、センサーの針の大きな動きに惑わされる必要はない。易しくてよくわかったことを記憶だけに留めて何もしないよりは、難しくてわからなかったことの一つでも実践できれば楽しい。学びの感想の軸を難易度から幸福度や愉快度にシフトするのがいいだろう。