幼稚な反撥

問いの立て方を見れば、その人間の問題意識がある程度までわかるものである。

たとえば「お出掛けですか?」などは、疑問文の形になっているが、決して尋ねてなどいない。時代を経て何度も何度も繰り返されて共有化され慣習化された結果、問いの機能を失ってしまったのである。

A お出掛けですか?
B ええ。
A どちらまで?
B ちょっとそこまで。
A よろしいですなあ。

人間関係のための潤滑油効果を持つやりとりである。愛想の問いに神妙に答えてはならない。問い相応の応答でよいのである。
ところで、答え方を見ても、当然その人間の問題意識や真剣度をうかがい知ることができる。大蔵大臣時代だったと記憶しているが、宮沢喜一は「仮に……になれば、どうなるでしょうか?」という記者の問いに、「仮の質問には答えられない」とぬけぬけと言い放った。この種の物言いをしゃれた切り返しと勘違いしている輩がいるが、単なる幼稚な反撥にほかならない。

「リンゴかバナナか?」や「米かパンか?」などの究極の選択は、「もしこの世界でたった一つしか選べないとしたら……」という仮言を前提にしている。条件のついたお遊びと言ってもいい。「仮に」や「もし」は、ともすれば行き詰まりがちな話を進めるための契機であって、決して本意を聞き出そうとしているわけではない。問う者も答える者もそこのところがわかっているから、スムーズなやりとりができるのである。
詭弁家は「選択肢はそれら二つだけではない。他にもある」などと言い放ってかっこいいと思っている。あるいは、問いそのものを否定して「そんな悩みは無用である。現実世界では米もパンも食えるのだから」などと言う。とてもバカげている。いずれも問いに答えていないのである。答え方を見れば、人が素直かひねくれ者かがすぐわかる。相手の問いの形式にケチをつけてはいけないのだ。問いにはいさぎよく答える。ただそれだけ。
なお、「米かパンか?」という問いは仮言的であるばかりでなく、レストランでも現実によく聞かれることがある。以前、インド料理店で「ナンかライスか」と二者択一で尋ねられた。迷った挙句、「両方食べたいなあ」と言ったら、あっさり「わかりました」。たまに問いに逆らってみるのも悪くない。もっとも相手が成熟の共感をしてくれて成り立つ話ではあるが……。
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中学生用に編まれた英国のディベートの演習本。30の討論テーマのすべてが二者択一形式、つまり肯定か否定かになっている。