正解は創り出すもの

悩ましいテーマを取り上げる。時代も市場もいっこうに晴れ間を見せず、みんな迷っている、みんな困っている。講師仲間は言う、「講演も研修も半減した」と。ぼく自身もそうだ。減りこそすれ、増えてはいない。東京のメーカー系中小企業の社長が語っていた、「昨年は一昨年より20パーセントダウン、今年は昨年の20パーセントダウンだ」と。つまり、この下降ぶりでは、3年で売上が半減することになる。ゆゆしき死活問題である。環境を変える力のない個人は己の身の処し方によって生き延びるしかない。動物界ではそれが常。

「ピンチはチャンスなんだ」という自己暗示も「ピンチをチャンスに変えよ!」という叱咤激励も、なんだか気休めのように聞こえてくる。気だけ急いても精神力を逞しくしても、人には自力(=地力)というものがある。火事場の何とか力が発揮されることはあるだろうが、いかにも心細い可能性に賭けるわけにもいくまい。つまり、できることとできないことの分別なくしては、どんなに何かを信じてもどんなに気合を入れても限界があるのだ。

講師業の先輩にA先生がいる。この人のポリシーは単純明快で、古典的な「入りを量りて出ずるを制す」を実践している。収入であれ資源であれ、持ち分の範囲で生活設計を立てることだ。単なるケチではない。身の程を知って、分相応に自力を発揮するような意味である。ただ、この先生は少々極端で、「出ずる」要因すら徹底的に排除する。行き着くところは自給自足になってしまうだろう。実際、都会から田舎に転じてそれに近い生活をしておられると聞く。入りを量ることはするけれども、入りを促す策すらいっさい講じない主義である。


塾生のTさんが「今年はアグレッシブ」を宣言し、最近のブログでは「攻撃は最大の防御」をうたっていた。同じく塾生のMさんは「景気の悪い年は、遠慮をするな、金を使え」と書いていた。これまでやらなかったことをするのだから多少の勇気はいる、宣伝広告や接待、研究開発に投資しておけば、景気回復さえすれば生きてくる、という論拠だ。二人ともぼくよりも経営に精通した経営トップである。だから、単純に「ピンチはチャンス」と考えたうえでの主張などではない。賢明だから「ピンチはピンチ」という腹積もりもあるだろう。

どんな事態を前にしても、リーダーの進む道には、自分で事態を解釈して決断を下す以外の選択肢はない。正解があってそれを探しに行ったり誰かに教わるのではなく、正解を自ら創り出すのがリーダーの本分である。うまくいくかどうかはわからない。だから企業経営にはプロフィットもあればロスもあるのだ。ただ、ぼくは思うのである、攻めるか守るかの二者択一などではないと。Tさんには、アグレッシブ(攻撃的)でもなくディフェンシブ(防御的)でもない、プログレッシブ(進歩的)という道があると伝えた。守りながら攻めの手を睨む、着実な一歩一歩という方法だ。Mさんには、攻めの広告でもなく守りの無広告でもなく、累積的な広報(パブリックリレーションズ)があると伝えたい。

攻めるか守るかという決断は、一対一という戦いでの話なのだ。そこにはすでに地力の力関係がある。守勢に立った弱者には勝ち目はなく、逆転の目があるとすれば強者がミスをする場合に限る。ところが、ぼくたちが現在置かれている市場環境は決してマッチプレーなのではない。それどころか、誰かと戦っているわけでもない。不確実な市場環境にいる顧客との関係づくりをどうしていくかというテーマなのである。


一対一の関係はもとより、ありとあらゆる状況に対処する正解創造の法則は、おそらくジタバタもせずグズグズもせず、腹を据えて自力をきっちりと用いることなのだろう。二十代半ばの頃、このことをぼくは勝海舟の『氷川清話』の一節から学んだ。

一たび勝たんとするに急なる、たちまち頭熱し胸踊り、措置かへつて鬘囀てんとうし、進退度を失するのうれいを免れることは出来ない。もし或はのがれて防禦ぼうぎょの地位に立たんと欲す、忽ち退縮たいしゅくの気を生じ来たりて相手に乗ぜられる。事、大小となくこの規則に支配せらるのだ。

平易に解釈してみよう。一丁やってやろうと気張ってアグレッシブになると冷静さを失い、やること成すことが裏目に出てしまい、にっちもさっちもいかなくなる危険に陥る。かと言って、綱渡りは御免とばかりに守り一辺倒になると、今度は意気がしぼんでしまって、相手(もしくは環境)のペースに嵌まってしまう。世の中はだいたいこんなふうになっている。

攻めか守りかではなく、攻めと守りの両方を臨機応変に行ったり来たり、時には併用する策こそが正解なのだろう。そして、表現を変えて繰り返すならば、その正解を創り出すのは、強がりな可能思考なのではなく、不可能をあらかじめ潔く認めておく「沈着冷静な可逆思考」なのだろう。

謙虚なヒアリングと潔いアンサー

二十歳前からディベートを勉強し、三十歳前後から広報の仕事に身を置いた体験から、「PRと交渉」という、一見異なった二つのテーマを一本化して講演することがある。自分の中では同じ範疇のテーマとして折り合っているが、「なぜPRと交渉?」とピンとこない人もいるようだ。

PRというのはPublic Relations(パブリック・リレーションズ)のことで、「広報」と訳される。パブリックというのは不特定多数の一般大衆ではなく、「特定分衆」という意味に近い。共通の利害や関心などに応じて対象を「特定の層や特定のグループ」に絞り込むのがピーアール上手だ。だから、「広報」よりも「狭報」と呼ぶほうが本質をついている。

絞り込んだ各界各層に望ましいイメージを広めて好ましい関係を構築しておく。この点でPRはリスク回避やリスク軽減の基盤をつくるものだ。対照的に、交渉はリスク発生やリスク直面にあたっての処し方にかかわる。いずれも、企業(または行政)の対社会的組織活動である。ニコニコPRしてコワモテ交渉していたら矛盾する。一度イメージダウンすると交渉で失地回復するのはきわめて難しい。ぼくの中ではPRと交渉は一本の線でつながっている。


「話し下手だが聞き上手」という日本人を形容する言い回しは、まったくデタラメである。同質性の高い社会で生まれ育った人間は、人の話にあまり真剣に耳を傾けない。質問にもしっかりと答えない。

謝罪のことばもワンパターンだ。不祥事の当事者の謝罪の様子を見て、テレビの視聴者は「こんなことで共感が得られるはずがないのに……」と呆れ返る。しかし、当事者側に立ったら「申し訳ありませんでした」以外に選ぶことばはない。「頭が真っ白でした」というのは、新手の苦肉の策だったかもしれない。

商売人としてブランドに安住せず、ブランドを信用の証にする。顧客より上に行かない、かと言って、へりくだり過ぎることもない。つねに人々の暮らしをよく見つめ、人々の意見に耳を傾ける。質問を歓迎し的確に応答する。謙虚さと潔さのバランス。特定顧客におもねることなく、すべての顧客に等距離関係を保つ。こうした取り組みをしていないから、一部の人々から不評が広がる。一部の人々の大半は内部の人々だ。経営者と従業員の関係もパブリック・リレーションズなのである。

「世論を味方につければ、失敗することはない」とはアブラハム・リンカーンのことばだ。常連さんの意見よりも大きな概念――それが世論だ。

一部老舗の商売道では当たり前とされる「一見さんお断り」(ぼくの自宅の近くには「素人さんお断り」というのもある)。近未来ライフスタイルや今後の市場再編を冷静に予見したら、そんな偉そうなことをほざいている場合ではないだろう。