複雑と単純のはざま

テレビドラマはめったに見ないが、ある番組をBSハイビジョンで見終えてそのままつけっぱなしにしていたら、『坂の上の雲』が始まった。毎週同じ曜日同じ時間帯に拘束されてしまうシリーズドラマに熱心ではないので、普段はすぐにチャンネルを変えるか電源を切る。だが、このときに限ってエコに反してテレビをつけたまま雑用したり本を読んでいた。画面には時々目を向ける程度だったが、音声は当然耳に入ってくる。

たまたま「その場面」ではテレビの前に座り込んでお茶を飲んでいた。秋山好古が上京してきた弟の真之と飯を食っている場面だ。兄が酒を一気に飲み干し、その茶碗を弟に渡す。弟が櫃から飯を盛って漬物をおかずにして腹へと流し込む。茶碗は一つ。やりとりの台詞は細かく覚えていないが、一つの茶碗に象徴される生活スタイルを「身辺を単純に」と描写していたのが印象に残った。しばらくして電源を切ったが、就寝前に身辺単純を「シンプルライフ」に読み換えて、ぼく自身の日々の生活をなぞったりしていた。

というのも、偶然なのだが、その前日にノートに「思考複雑、言論明快、行動単純」という表題で次のようなメモを、文章未推敲のまま記していたからである。

それぞれの四字熟語に異論がないわけではない。場合によっては、思考も言論も行動もすべてシンプルをモットーにしてもいいわけだ。しかし、思考単純、言論単純、行動単純と書き換えてみると、どうしても思考単純だけには納得がいかない。なぜなら、思考の特権は現実から乖離して「何でもどんなふうにでも巡らせる」という自由自在性にあるからだ。自由自在性は複雑をも意味する。どんなに複雑に思考をしても、誰にも迷惑をかけることはないだろう。翻って、その複雑思考をそっくりそのまま言論化すれば他者が困り果てる。ゆえに、若干の複雑さが残るにしても、言語は明快であることが望ましい。また、社会での協働という観点に立てば行動もわかりやすほうがいいだろう。現実側から並べ換えると、「シンプルに行動し、わかりやすく対話し、そしてしっかり考える」ということになる。


一昨年までぼくは『シンプルマーケティング』を標榜して何度も講演していた。今でもこれが拙いとは思っていないが、誤解を招いたかもしれないと反省している。シンプルであるべきは手法としてのマーケティングである。そのことを訴求したいがために、ぼくは市場そのものを「売り手と買い手、商品・サービスと貨幣」の4要素を中心に見るべきだと提言していた。弁明が許されるなら、決して「4要素のみ・・」と言ったわけではない。さらに付け加えるならば、売り手も買い手も人間であるからコミュニケーション・消費・欲望なども含んでいるし、商品・サービスには技術・便益・満足などが関わり、貨幣には金融・価値・家計などの要素が無関係ではない。4要素は周辺へと広がる。中心には周縁がついてまわるのである。

実に複雑な現象をとらえて単純に考えることはできない。複雑な事柄は複雑に考えて扱うしかないのである。しかし、科学がそうしてきたように、複雑怪奇に潜む本質をシンプルな法則でまとめようとし、誰かに伝え誰かと行動して方策を立てるのは人のさがである。複雑な要素を秘めているはずのゲーム――たとえば競馬、囲碁・将棋、サッカーなど――に必勝法や定跡を模索しようとする心理同様、つかみどころのない市場の中にぼくたちは「確かなマーケティング法則」を発見したいと願っている。

単純化は人間能力の限界から来るものなのだろう。複雑を単純に見立てようとするのは、言論と行動のための方便にすぎない。何かを解決するために誰かとコミュニケーションしたり行動したりしようとすれば、複雑な現象を解体して「単純に箇条書き化」することは絶対条件なのである。しかし、しばし解決を棚上げし、言論や行動をも括弧の中に入れてしまえばどうだろう。ぼくたちがいる市場は複雑であり、いかなる手立てを講じても単純に思考することはできそうもない。億単位の売り手と買い手に商品とサービス、兆単位の貨幣……複雑をあるがままに複雑として見つめることは無駄ではない。この作業を経たのちにはじめて、シンプルマーケティングが「身の丈に応じたマーケティング」ということが明らかになるだろう。