その揚げ足、取ります

先々月に別役実の『当世 悪魔の辞典』を紹介した。同じ著者が『ことわざ悪魔の辞典』も書いている劇作家別役実の脚本はほとんど知らないが、エッセイ風小説あるいは小説的エッセイはよく読んでいる。「ことわざ版」に【あげあしをとる】という項目があり、次のように解説されている。

ひょいと持ち上げた足をつかまえてしまうと、一本足では安定を欠くから、必然的によろめくことになるというわけだが、相撲取りに言わせると、「どうしてその挙げてない方の足をとらないのか」ということになる。その方が、よろめかすだけでなく、もっとダイナミックに、ひっくりかえすことが出来るというわけだ。こういうことはやはり、専門家に聞いてみないといけない。今後は、「据え足をとる」と言うべきであろう。

この説によれば、ぼくが他人の揚げ足を取って議論でやりこめたりするのは良心的ということになる。相手が揚げた足を取るだけで、据えているほうの足にはまったく触れないのだから。そう、転ばすつもりなど毛頭ないのである。

最近取ってあげた揚げ足がこれだ。「こちらの役所では定額給付金を日本で初めて支給しました」。「日本で」を「国内で」としているテレビ局もあった。いずれも揚げ足を取られてもしかたのない表現だ。なんだか「有史以来わが国初」と響いてくるではないか。あるいは、「その役所が日本以外ではすでに給付していた」というニュアンスもこもっている。これじゃダメ、ここは「こちらの役所では他府県に(他市町村に)先駆けて定額給付金を支給しました」と言うべきところである。


なお、別役実には隠れた読者か、隠れざるをえない読者か、隠れたくて隠れているわけではない読者がいるようである。ぼくの知り合いに熱烈なファンが一人いた。その人はぼくに『道具づくし』という本をくれた。もう一人、ぼくが貸してあげた『日々の暮し方』にいきなり嵌まってしまって、大ファンになった人がいた。両人ともに「いた」と過去形にしたのは、消息不明で十数年会っていないから。後者の本は「正しい退屈の仕方」に始まり、「正しい風邪のひき方」「正しい黙り方」「正しい禿げ方」「正しい小指の曲げ方」などの傑作な作法が紹介され、最後が「正しい『あとがき』の書き方」で終わる。

ぼくに『道具づくし』をくれた彼が言ったことがある。「別役実の本をある人に貸してあげたんですよ。何日か後に会ったら、「いったいどういうつもりなんですか!? ふざけるのもいい加減にしてください!」と怒られました。岡野さんも誰かに別役実を貸すときはお気をつけて」。ぼくの場合、一人だけに貸して大受けした。ラッキーだったというほかない。

『日々の暮し方』の正真正銘のあとがきは次のように結ばれている。

ともかく、このようにして連載された原稿であっても、一冊にまとめてあらためて世に送り出した以上、私の責任の範囲からはずれたものと見なすべきであろう。著作というものはすべて、その著者の「息子のようなもの」とされている。そしてその「息子のようなもの」は、息子というものが常にそうであるように、独立するのである。従って、以後この著書に対する「苦情」「いちゃもん」「非難」「中傷」「嘲笑」の類いは、著者ではなく、むしろ著書自体が引き受けるべきものであると、私は考える。

結局、本をどうすればいいのか?

用語の定義にあたっては、「定義される用語が定義することばの中に含まれてはいけない」という法則をパスカルが示している。読書を「本を読むこと」とした時点で、「読」ということばが使われているので、パスカル流の定義法則に反する。とは言え、この厳密な法則を適用していくと、「天使の辞典」はほとんど成り立たなくなる。

それにひきかえ、「悪魔の辞典」は楽だ。何でもありである。世間で異端視されているだけに、余計に気楽である。「なるほど」という妥当性を実感する回数は、言うまでもなく、悪魔のほうが天使よりも多い。

ここ数週間のメモを繰ってみた。読書に関しての気づきはさほど多くない。「読者にとって本は二種類に分かれる。傍線を引くか、引かないかである」という意見を書き、別のところでは、「本は編集視点で物語と非物語の二つに大別できる」と記している。自宅の書棚もオフィスの書棚も、まだこんなふうに分類して並べてはいないが……。


読書についてぼくの最新の定義を紹介しておく。

【読書】 本の体裁に編集された外部の情報と、自分のアタマの中に蓄えられている内部の情報を照合すること。

この中の「照合」がわかりにくいかもしれない。老舗の天使の辞典である広辞苑によれば「照らしあわせ確かめること」。えらく差し障りなく定義するものだ。そのくせ、さきほどのパスカルの法則には堂々と反している。

不満はさておき、本の情報と自分のデータベースを照らし合わせるのが読書である。まったく重ならないこともある。取り付く島がないほど面倒見の悪い本か、自分のデータベースが貧弱すぎるかのいずれかだ。たいていの書物と読書家の知識は、程度の差こそあれ、重なるものである。重なる部分を確認したり記憶を新たにしたり、本に攻められて一方的に情報を刷り込まれたり、何とか踏ん張って持ち合わせの知識で対抗したり、コラボレーションしたり完全対立したり、好きになったり嫌いになったり……。照合とは、縁の捌き方でもある。


出張中の三日間、読書について書いてきたが、キリがない。けれども、今月からスタートした書評会は「本をどうするのか」への一つの方向性を示すものになるだろう。「本は買ったり読んだりするものではなく、書くものである」というユダヤ格言がある。まったく同感であり、これまで売れない本を二冊書いているが、この十数年間は読者側から修行をだいぶ積んだので、三冊目を書いてみようという気になっている。 

読書の「非天使的な」定義

実際に読んだ人もいるはず。ピアスが著した元祖『悪魔の辞典』(The Devil’s Dictionary)はおよそ百年前にアメリカで出版された。一般の辞書同様アルファベット順に編纂されているが、すべての用語が再定義されている。再定義と言うものの、通常の発想ではない。すべて逆説的で諧謔的、人間の凡庸な発想をことごとく皮肉っている。ふだん使っている『広辞苑』や『新明解』やその他の国語辞典が「天使の辞典」と思えばよい。

時代的差異もさることながら、日米の文化的差異があるので、まったくおもしろくない定義もある。その時々の世相のフィルターに通さないと新鮮な風刺的定義になってくれない。しかし、心配無用、ピアスの思いを汲んでオリジナルの悪魔の辞典を編んでくれる人たちがいる。告白すると、ぼくの本棚には天使の辞典よりも悪魔の辞典のほうが多い。秀逸な悪魔の辞典から二冊紹介しておこう。


『ビジネス版悪魔の辞典』(山田英夫著)。本も読書も再定義してくれていないのがちょっと残念。さて、書評会のメンバーが報告・連絡・相談、いわゆる「ほう・れん・そう」をバッサリ切る仕事術を紹介した。この悪魔の辞典の定義はこうだ。

自分で主体的に意思決定できない社員を育成する日本的システム。

なるほど。真実は天使側の定義だけにあらず、悪魔側も真理の光を当てているではないか。

にんまりと笑ってから少ししんみりした定義が「中小企業」だ。

(1) 小さい企業のうち、大きくならないほうの企業群。
(2) 倒産したら、自腹で補てんしなくてはならないほうの企業群」。

さらに、ウソのようなホントが「プロジェクター」である。

研修中にパソコンとうまくつながらないことにより、誰がパソコン・スキルが高いかを教えてくれる機器。

ぼく自身、実際に何度か体験した。うまくつなげた受講生に送られる拍手は、講師への感謝の意を込めて送る拍手よりも、もちろん大きい。

別役実の『当世悪魔の辞典』は魅せてくれる。読書について「はじめに」でいきなりこう説明する。

読書というものがおおむね気詰りなのは、あらかじめ入口と出口が示されている点であり、自由に「出たり入ったり」出来ない点にある。

続いて、本編では「読書」を次のように定義する。

食事中の、排便中の、通勤電車の中での、やることがなくて退屈している目に与えられた、片手間仕事。従ってそのための本は、小さなものに限られる。最近「読書」が「文庫本を読むこと」と同義になりつつあるのは、そのためである。

「本」はどう定義されているか。

既に我々は、生涯をかけても読み切れないほどの量の本を抱えこんでおり、これは更に増加し続けつつある。「人類は滅びて、膨大な本だけが残った」という予感を、我々は感じとりつつある。


ふつうの天使の辞典が、読書を「本を読むこと」と定義し、本を「書物、書籍」と定義する想像力の乏しさにあらためて呆れ果てる。書かれた通りに文字を理解し、著者が意図した通りに 本を読むほどつまらぬことはない。ひとまず「悪魔の辞典的な読書」が批評眼を培ってくれることを指摘しておく。