二字熟語遊び、再び

オセロ 二字熟語.png「平和と和平」のような関係が成り立つ二字熟語を探し、昨年本ブログで二度遊んでみた(『二字熟語で遊ぶ』『続・二字熟語で遊ぶ』)。

二字熟語「○●」を「●○」にするとまったく意味が変わってしまうものもあれば、類語として成り立つものもある。欲情と情欲の違いは何となく分かる程度であって、言を尽くして差異を明らかにするのは容易でない。勉強ではなく遊んでいるのだから、辞書に頼らずに熟語を対比させてみるのがいい。自分自身の語感の鋭と鈍にも気づかされる。

【期末と末期】
(例)決算の「期末」になって経営が「末期」症状になっていることに気付いたが、手遅れだった。

中高生の頃、期末試験のたびに絶望的になった。いずれ忘れてしまう年号や固有名詞を、ただ明日と教師のためだけに今日記憶せねばならないという、不可解にして不条理な現実。期末という術語には悲観が漂い、末期には絶望が内蔵されている。
 
【所長と長所】
(例)さすが「所長」だけのことはある。短所はほとんどなく、「長所」ばかりが目立つ。

自分のことを描写した例文ではない。ちなみに、ぼくは三十代半ばで創業した。社長と呼ばれるのに違和感があったけれど、社名に「研究所」が付くから「所長」と名乗れた。所長には商売っ気をやわらげる響きがある。
 
【手元と元手】
(例)「その事業を始めるには『元手』がいるぞ」「ああ、わかっている」「ちゃんと『手元』にあるのか」「一応」。

この例のように、元手は手元にあることが望ましい。他人のところにある資金を当てにしていては元手と呼べないだろう。なお、元手はスタート時点での資金である。この資金を生かして手元に残したいのが利益というわけだ。
 
【発揮と揮発】
(例)彼は持てる力を「発揮」して挑んだが、努力の一部は水泡に帰し、あるいは「揮発」してしまった。

かつてはガソリンの類を揮発油と呼んだが、衣服のシミ抜きに用いるベンジンなどもそう呼ばれていた。独特の匂いが鼻を刺激するが、シミ抜きで威力を発揮したら後腐れなく揮発する。疾風はやてのようにやって来て用事を済ませ、疾風のように去って行った月光仮面もよく似ている。
 
【事情と情事】
(例)すべての「情事」にゆゆしき「事情」があるとはかぎらない。また、事情が何であれと言う時、その事情に情事を想定することもまずないだろう。

小学生の頃に初めて「情事」ということばを知った。ご存じゲイリー・クーパーとオードリー・ヘップバーンの『昼下がりの情事』という映画の題名がきっかけだった。英語の“information”かドイツ語の“Informationen”かに「情報」という訳語をつけたのは森鴎外だと何かの本で読んだことがある。こちらの情は「じょう」ではなく「なさけ」のほうだったと思われる。
 
【水力と力水】
(例)「水力」は電気エネルギーとなって文明に寄与し、「力水ちからみず」は精神的エネルギーとなって力士に元気を与える。

力水は浄めのものである。力水は負けた力士ではなく勝った力士につけてもらう。これで気分が一新する。但し、力水は所詮水である。力水で風呂は沸かないし量も少なすぎる。他方、水力は力である。他の力同様に、水の力も善悪両用に働く。

ネタバレと学習

Okano Note.jpg本ブログ〈Okano Noteオカノノート〉を始めてまもなく5年になる。およそ750本ほど書いてきただろうか。「あれを読んでいると、きみの意識の視線の先が何となく見えてくるよ」と知人がつぶやいたが、それはそうだろう。意識が乏しいテーマを取り上げるはずもないのだから。

ぼくは28歳の頃から、気になる事柄や術語を気の向くまま小さなノートに書き込み、自分なりの考えをしたためてきた。企画や講演という仕事柄、なるべく特定ジャンルに縛られることなく、広く浅くセンサーを多方面に向けてきたつもりである。小さなノートはぼくにとっての「ネタ帳」であり、そこに書き込んできたおびただしいテーマを企画や講演に生かし、このブログも書いてきた、という次第である。
同業界にはネタを小出しにする人もいるし、ぼくのように出し惜しみせずに自らネタを割ってみる者もいる。出し惜しみしないことを威張っているわけではない。ただ、秘伝のタレを守るような、一つの価値観に執着する生き方がどうも性に合わない。手持ちのネタや出所を公開することによって、ぼくは新ネタを仕込まねばならぬ。これはとてもきついことなのだが、そうすることによって無知化しかねない自分を叱咤激励できているような気がする。

映画好きだが、最近はあまり映画を観ていない男がいる。さほど映画好きでもないが、最近ちょくちょく映画を観るのがぼくだ。二人でランチしている時に、週末にぼくが観た映画のことを話したら、「どんな感じでした?」と興味を示したので、高速であらすじを喋り始めた。さわりに差し掛かったところで、突然彼は「ああっ~、ネタバレ~」と叫び、勢いよく両手で耳を覆った。ちなみにネタバレというのは、彼のような未鑑賞者の楽しみを奪うことに用いられる。「きみが聞きたそうだったから、話しただけじゃないか」と言って、ぼくはシナリオの顛末直前で話すのをやめた。
人というのは不思議な学習者である。興味のあることは聞きたい知りたい、しかしすべてを明かされるのは嫌で、ここぞというところは自分で見つけて感動したいのである。ところが、さほど興味のないことについては、その全体のことごとくを他人から教わって平然としている。いや、むしろ、やむなく学ばねばならないことなら、自分で知る楽しみも放棄してネタバレを大歓迎してしまうのである。
そもそも学習とは人や本によるネタバレにほかならない。ぼくたちの知識の大半はネタがそっくりバラされて形成されたものだろう。小説・映画と研究論文などのネタバレ感覚が違うことは認めるが、どちらにせよ、鑑賞したり学習したりするのはネタがバレていく過程なのである。ネタは欲しいがおいしいところはバラさないでくれと言うのなら、独学に限る。たとえば一冊の本を読んでネタを仕入れたら、究極の歓びを自らの想像で仕留めればよい。
なお、ネタとは「タネ」を逆さ読みした隠語である。アイデアのネタ(情報)、鮨ネタ(素材)、手品のネタ(仕掛け)など、ある究極形を生み出すための鍵にほかならない。ぼくもネタを仕入れ仕掛ける。それを公開しても何も困らない。なぜなら、同じネタを用いても究極形が違うからである。

利を捨て理を働かせる

喉元過ぎれば熱さを忘れると揶揄される国民性だ。立ち直りの見事さは、そこそこ反省が済めばケロリとしてしまう気質に通じることもある。凶悪犯が手記を書けば、あれだけ煮えくりかえっていた怒りや憎しみをすんなりと鞘に収め、節操もなくその手記を読んで涙する。そして、まさかまさかの「あいつもまんざらではない」という評価への軌道修正。最新の記憶が過去の記憶よりもつねに支配的なのである。楽観主義と油断主義が紙一重であること、寛容の精神が危機を招きかねないことをよくわきまえておきたい。

推理について書いてからまだ二十日ほどしか経っていない。現在遭遇している危機を見るにつけ、真相はどうなのか、いったいどの説を信じればいいのか、ひいてはしかるべき振る舞いはどうあるべきなのかについて、いま再び考えてみる。原発にまつわる事象を、現状分析、対策、権威、専門知識、情報、はては文明と人間、科学、生き方など、ありとあらゆることについて自問する機会にせねばならない。いま考えなければ、二度と真剣に考えることなどないだろう。

推理とは何かをわかりやすく説いている本があり、こう書いてある。

「理のあるところ、つまり真理を、いろいろの前提から推しはかること。(中略)推理の結果でてきた結論は、推しはかりの結果ですから、100パーセントの信頼性をもたないのです」(山下正男『論理的に考えること』)

前提を情報と考え、結論を真実と考えればいい。いったい事実はどうなっているのかと推理する時、ぼくたちは様々な情報を読み解こうとするのである。


一般的には、一つの情報よりも複数の情報から推しはかるほうが、あるいは主観的な情報よりも権威ある客観的な情報から推しはかるほうが、推理の信頼性は高くなると思われている。ぼくもずっとそう思っていた。多分に未熟だったせいもある。だが、現在は違う。毎度権威筋の証言を集めて推理するまでもなく、まずは自分自身の良識を働かせてみるべきだと思うようになった。極力利己を捨て無我の目線で推理してみれば、事態がよくなるか悪くなるか、安全か危険か、場合によってはどんな対策がありうるかなどが素人なりに判断できるのである。

原子力推進派であろうと反対派であろうと、原発がエアコンのように軽く扱えるものでないことを承知している。また、原発から黒煙が出ていたという事実を目撃した。さらに、つい先日まで放射能の汚染水が海へ流れ出ていたという情報を同じく認知している。放射能基準値の数倍が百倍になり千倍になった。何万倍と聞かされて驚き、数日後には電力スポークスマンが「億」とつぶやいた。「嘘でしょう?」と誰もが思っただろうが、たしかに瞬間そんな数値を記録したようである。やがて七百五十万倍だったかに訂正されたものの、数値が尋常ではないことは明らかだ。

利を捨てて見れば、上記の情報を前提にして好ましい結論を導けるはずはないのである。推理の結果、安全か危険かの二者択一ならば、「危険」と言うのが妥当だ。しかも、高分子ポリマーは権威的で信頼性が高そうに見えるが、おがくずと新聞紙のほうはやむにやまれぬ、自暴自棄の対策に見えてしまう。たとえ専門的に効果的な処理であるにしても、知り合いの銭湯のオヤジさんと同じ材料を使っていてはかなり危ういように思われる。

流言蜚語や噂などと権威筋のコメントが似たり寄ったりだと言う気はない。しかし、推理と伝播の構造にさしたる大差はないようにも思われる。しかるべき情報から信頼性の高い推理をおこなおうとする責任者なら、まず第一に利害や利己から離れてしかるべきである。もし専門家の意見に私利がからむとすれば、これはデマと同種と言わざるをえない。自然のことわりがもたらした惨事に対して、人類がを働かせて方策を打ち立てるべきだろう。

内容と表現の馴れ合い

ずいぶん長い間、情報ということばを使ってきたものだ。まるで呼吸をするように使ってきたから、立ち止まって一考する機会もあまりなかった。実に様々な文脈で登場してきた情報。ぼく自身も知識という用語から峻別することもなく、情報、情報、情報と語ったり書いたりしてきた。但し、数ヵ月前に本ブログの『学び上手と伝え上手』で書いたように、見聞きする範囲では情報という語の使用頻度は減っている気がする。

それでもなお、この語がなかったら相当困るに違いない。見たままなら「情けを報じる」である。「情け」というニュアンスをこの語に込めたのはなかなかの発案だった。一説に森鴎外がドイツ語を訳した和製漢語と言われているが、確かなことはわからない。確実なのは、広辞苑がここ何版にもわたって「ある事柄についての知らせ」という字義を載せていることだ。「知らせ」であるから、知識でも事件でも予定でもいいし、情けであってもまずいわけではない。

情報ということばは多義語というよりも、多岐にわたる小さい下位の要素を包み込んだ概念である。固有の対象を指し示すこともあるが、ほとんどの場合、具体性を避けるかのように情報ということばを使ってしまう。「情報を集めよう」とか「情報化社会において」とか「情報発信の必要性」などのように。つまり、内容を明確にしたくないとき、情報の抽象性はとても役に立ってくれるのである。


先に書いたように、情報は「事柄」と「知らせ」の一体である。内容と表現と言い換えてもいい。ぼくたちが欲しいのは情報の内容であることは間違いない。ところが、情報はオーバーフローするようになった。そして、ここまでメディアが多様に細分化してしまった現在、内容よりも「知らせ方」の意味が強いと言わざるをえない。知らせ方とは受信側からすれば「知り方」である。その知り方を左右するのは、情報を表現するラベルや見出しだ。

こうなると、内容あっての表現という図式が怪しくなってしまう。内容がなくても、表現を作ってしまえば内容らしきものが勝手に生まれてくるからである。情報価値などさほどないがラベルだけ一人前にしておく、あるいは、広告でよく見られるように、同じ商品だが表現だけをパラフレーズしておく。実際、近年出版される本の情報内容は、タイトルという表現によってほとんど支配されているかのようである。さらにそのタイトルが帯の文句に助けてもらっている。

眼が充血したので眼科に行けば、その向かいに耳鼻科の受付。『春子は、春子なのに、春が苦手だった』というポスターが貼ってあった。かつて見出しは『花粉症の季節』のようなものだったに違いない。そして、それは花粉症対策の必要性という情報と乖離することのない見出しだったはずである。ここに至って、本来の医療メッセージが、花粉症に苦しむ女性、春子さんに下駄を預けている恰好だ。これなら『夏子は、夏子なのに、夏が苦手だった』も『冬雄は、冬雄なのに、夏が好きだった』も可能で、これらの表現に見合った情報内容を後から探してもいいわけである。

情報内部で内容と表現が馴れ合っている。そして、ぼくたちはろくでもないことを、目を引くだけの表現で知らされていくのである。ことば遊びは好きだが、情報を伝えるときに表現を弄びすぎるのはいただけない。

学び上手と伝え上手

無意識のうちに「知識」ということばを使っている。そして、知識をアタマに入れることを、これまた無意識に「学び」と呼んだりしている。学ぶとはもともと「真似」を基本として習い、教えを受けることだった。プロセスを重視していたはずが、いつの間にか「知識の定着」、つまりインプットに比重が置かれるようになった。現在、一般的には、学びが知識の習得という意味になっているような気がする。

教えを受けるにせよ本を読むにせよ、知は自分のアタマに入る。「知る」という行為はきわめて主体的で個人的だ。ぼくが何かを知り、それを記憶して知識とする過程に他人は介在しないし、とやかく言われることもない。ぼくの得た知識はひとまずぼくのものである。だが、どんなに上手に学んだとしても、知識を誰かと共有しようとしなければ、その知は存在しないに等しい。共有は伝達によって可能になるから、伝えなければ知は不毛に孤立するばかりだ。

高校生だった1960年代の終わりに、情報ということばを初めて知った。知識が「知る」という個人的な行為であるのに対して、情報には「伝え、伝えられる」という前提がある。やがて、情報化の進展にともない、知識ということばの影が薄くなっていった。

ちなみに、「知る」は“know”、その名詞形が“knowledge”(知識)。他方、「伝える」は“inform”、その名詞形が“information”(情報)。動詞“inform”は「inform+人+of+事柄」(人に事柄を伝える)という構文で使われることが多いから、このことばには他者が想定されている。伝達と同時に、共有を目指している。このように解釈して、二十年ほど前から、「知識はストック、情報はフローである」と講演でよく話をしてきた。


情報は空気のようになってしまったのか、調べたわけではないが、情報を含む書名の一般書がめっきり減ってきたような気がする。二十一世紀を前にしてピーター・ドラッカーやダニエル・ベルが知識について語ったとき、それは情報をも取り込んだ、高次の概念として復活した知識だったのだろう。昔の大学教授のように、ノート一冊程度の講義録で一年間持たせるような知識の伝授のしかたでは、おそらく共有化した時点で知は陳腐化しているだろう。

記憶するだけで誰とも知識を共有しようとしない者は「知のマニア」であって、学び上手と呼ぶわけにはいかない。知のマニアとは知の自家消費者のことである。誰にでも薀蓄する者は疎ましい存在と見られるが、学んだきり知らん顔しているよりはうんと上手に学んでいると言えるだろう。学び上手とは、どんなメディアを使ってでも誰かに伝えようとする、お節介な伝道師でもあるのだ。

プラトンが天才的な記憶力の持ち主であったことは明らかだが、彼が利己的な学び手でなかったのは何よりだった。一冊も著さなかった偉大なる師ソクラテスの対話篇や哲学思想は、プラトンなくして人類の知的遺産にはなりえなかった。プラトンはソクラテスに学び、そして学びを広く伝えたのである。イエスと弟子、孔子と弟子の関係にも同様の学習と伝達が機能した。言うまでもなく、誰かに伝えることを目的とした学びは純粋ではない。まず旺盛なる好奇心によって自分のために学ばねばならないだろう。そして、その学びの中に誰かと共有したくなる価値を見い出す。他者に伝えたいという抗しがたい欲求を満たすことによってはじめて、学びは完結するのである。

「なかったことにする」処し方

先週の講演で表題の「なかったことにする」が何を意味するのかを話したら、想像以上にウケがよかった。かぶりつきに座っていたT氏は特に気に入ったようで、懇親会での中締めの挨拶でこの言い回しを使われていた。先週書いたブログでも選択肢の一つとしての「なかったことにする」という話を取り上げた。

市場分析や他社分析と言うが、いったい何に関してどれだけの情報を集めてどのように読めばいいのか。誰もその解答を持ち合わせてはいない。たとえば顧客のニーズは知りえるのか。顧客はニーズが何であるのかをことばによって第三者に伝えようとするだろう。しかし、認識しているそのニーズとそれを表現することばはほんとうに整合しているだろうか。それは誰にもわからない。ぼくたちは「辛口」とか「甘口」 と使い分けてカレーライスを注文するが、こうしたことばは人それぞれの味覚をアバウトにしか表現できていない。ゆえに、甘口を頼んだのに「意外に辛いじゃないか」という人もいれば、「想像以上に甘いなあ」という人もいる。自分が想定した甘口にぴったりはまる人はむしろ少ないかもしれない。

繰り返すが、いったい何に関してどれだけの情報を集めてどのように読めばいいのか。誰も答えることはできないが、一つだけ確実に言えるのは、期限が許すかぎり読めばいい、ということだ。裏返せば、どうあがいても期限には逆らえない。期限内に収まらなかった情報の分析は「なかったこと にする」しかない。分析できなかった情報や、マナイタに乗せたまではいいが、使いこなせなかった情報に未練を持ち続けても仕方のないことである。それは妄想だ。妄想とサヨナラする、つまり「莫妄想まくもうぞう」のためには、潔さを受容せねばならない。


原則として理性的な判断や論理的思考を尊重すべきだと思っている。しかし、永遠にそんなことばかり続けられない。ぼくたちには仕事がある。そして、所定の期限までに何がしかの成果を生み出さねばならない状況にいる。もしも意思決定が長引いて期限を脅かしはじめたら、別の処方を講じるべきではないか。世界が複雑だから単純化のために「二項対立」が生まれたのだが、さらなる単純化をしてみる。「不二ふじ」、すなわち選択を一つにしてしまうのだ。

選択すべきABの間に大きな差があれば迷いなどしない。しかし、ABが拮抗すると悩む。いずれにも捨てがたいほどの良さがあり、僅差も僅差、判断しかねて立ち往生する。ところが、冷静に考えてみれば、甲乙つけがたいのなら、どっちを選んでも同じではないか。ありきたりな言い方をすれば、一か八か天に託せばいいのである。

そう、迷いに迷ったら、思い切ってオプションの一つを消してみるのだ。三つの選択肢があったら思い切って二つ消してみる。正しく言うと、消すのではなく、はじめから「なかったことにする」というわけである。自分には一つの道しか与えられなかった、他の道をねたんだり欲しがったりしても叶わない。なぜなら、そんなものは「なかった」からである。選択肢は一つあるのみ。それを選んで潔くいい仕事をしようではないか。「なかったことにする」処し方をすると、そこにある種の運命すら強く感じるようになって、仕事にも力が入る。情報や選択肢が増えすぎてしまった時代だからこそ、「なかったことにする」という処し方が意味を持つ。 

「動体知力」への意識

知力の低下が叫ばれるものの、指標の定め方や統計の取り方次第で、昔に比べて知力がアップしているという説も浮上する。マクロ視点で日本人の知力を世代比較するのではなく、ここは一つ、自分の回りの人間をつぶさに観察してみようではないか。しばし自分を棚上げして問うてみよう、「わたしの回りのみんなの知力、いったいどんな程度でどんな具合?」

過去に比べてどうのこうのと考える必要などない。当面の問題を上手に解決できる知力、想定外の難問に直面してその場で瞬時に対処できる知力、暗記した事柄を再生するだけでなく創意工夫もできる知力――こんな知力の持ち主が自分の回りにいるだろうか? 周囲には、定番のお勉強がよくできたであろう「静止知力型優等生」は五万といるが、変化に柔軟対応できる「動体知力」の持ち主は、いないことはないが、稀有である。絶滅危惧種にならぬことを祈らねばならない。

だが、そこまで絶望するにはおよばない。そういう人たちが顕在化していないだけかもしれない。あるいは、ぼくの見る目がないだけなのかもしれない。いや、実は、どんな人間にも部分的には動体知力が潜在しているのだが、それを発揮する環境に恵まれていないのかもしれない。そう、動態的な舞台とテーマを用意しなければ、動体知力を発揮する必要など芽生えてこないからである。


だいたいにおいて、集団で学びながら身につける知力は、じっとしている亀の頭から尻尾までを定規で測るスキルのようなものだ。テーマも対象も計測器もすべて静止している。他方、入り組みながら飛ぶ鳥の数をすばやくカウンターで数えるようなスキルがある。鳥も動くが指もずっと動き続けている。あるいは別の例として、流れる時間を刻むために動き続ける時計はどうだろう。時が動き、同時に時計がそれを刻んでいく。一時も静止することがない。ぼくのイメージしている「動体知力」とはこんな感じなのである。

大学生になった1970年代始めは、知と言えば、まだまだ“knowledge”(知識)のことで、“information”(情報)は目新しいことばだった。前者が“know”(知る)から、後者が“inform”(知らせる)から、それぞれ派生した名詞だ。この二つの英単語には決定的な差異がある。前者の“know”の主体は自分であって、「私が知る」――これが知識。自分の中にストックするものだ。ここに他人は関わってはいない。対照的に、後者の“inform”は「誰かに知らせる」――つまり、自分から他者へ、あるいは他者から自分へと流れる情報だ。知識が〈ストック知〉であるのに対して、情報は〈フロー知〉なのである。


自分があることを熟考しているうちに、時代は動いている。自分の中で仕事をいったん休止しているあいだも、その仕事に絡むさまざまな要因は変化している。国際化・情報化の時代は24時間社会なのだ。このような時代が動体知力を求めているにもかかわらず、相変わらず日本社会で訓練しているのは静止知力――知識の貯め込み――のほうなのではないか。一人静かに本を読み、読んだ本の話を誰にするともなく悦に入る。転がってきたボールはいったん足で止め、それから狙いを定めて蹴る。期限ゆったりの宿題は大好き、でも予想外の問題のアドリブ解答は苦手。

動体知力の特徴は、スピード、集中力、即興性、対人関係性、複雑系、臨機応変、対話的、観察的、異質性、超越的などである。いずれもマニュアルや指導要領ではいかんともしがたい特徴だ。しかし、基本は動体への反応の速さである。すべての対象、テーマ、問題を止まったものではなく、「ピチピチと動いているもの」と認識すればいい。鮮度を落とさずに手早く捌く経験を積むのだ。何年もかかるものではない。テキパキと何事にも対峙すれば、それまで静止していた知力が勝手に動き始めるのである。  

「情報スキマー」としての顧客

十数年前のぼく自身の講義レジュメを繰っていると「情報ハンター」ということばがよく出てくる。色褪せて見え、何だか気恥ずかしい。それもそのはず、情報を探して集めて分析する時代だったのだから。情報コレクター(収集)の時代から情報セレクター(選択)の時代に移り、今は情報スキマーの時代になっている。このことに疎いと道を誤る。

クレジットカード情報を電子的に盗み取るのは「スキミング」。この“skimming”“skim”という動詞から派生している。「すくい取り」という意味だ。ここでは、「情報スキマー(skimmer)」は「情報をすくい読みしたりざっと読んだりする人」という意味で使っている。ラベルだけをちらっと見る。あるいは情報の上澄みだけを掬う――そんな感じである。人は大量情報の「湯葉」だけを食べるようになっている。

ちなみに速読のことをスキミングと呼ぶこともある。よく知られているスキャン(scan)もスキャニング(scanning)とかスキャナー(scanner)として使われるが、これにも「ざっと読む」という意味はある。しかし、もともとは「詳細に念入りに読み取ったり調べたりすること」なので、ぼくの考えるニュアンスを誤解なく伝えてくれるのはスキマーのほうである。


顧客と商品・サービスの間には必ず何らかの情報が介在する。情報は文字とはかぎらない。色・デザインや人の声・顔かもしれないし、状況や空気かもしれない。動機の有無にかかわらず、顧客は何らかの情報を知覚し、その情報を通じて商品やサービスに心理的に反応する。かつて顧客はこうした情報をよく吟味した。今夜のおかずをイワシにするかサンマにするか。そのような、一見どちらでもよさそうなことを決めるのに想像力と時間を使った。そう、購入決定に際して十分に「品定め」をしていたのである。

ところが、すでに大多数の読者がタイトルと帯で本を選ぶように、顧客は自分と商品・サービスの間の情報をスキムする。わずかに一瞥するのみである。にもかかわらず、情報を仕込む売り手のほうは、顧客がじっくり品定めをしてくれるものと信じて情報をふんだんに編集し流している。売り手の発想は、実に何十年も遅れている。

根本的な原因は、すでに古典と形容してもいい「顧客の絞り込み」が未だに十分におこなえていないことだ。顧客は多様化した。老若男女向けや不特定多数向けの情報など、ない! こんなことはみんなわかっている。だが、「どの顧客に対して商品・サービスのどの便益をピンポイントでマッチさせるのか」――このようにポジショニングすることに潔くないのである。やっぱり顧客を広げたがるし、便益をついつい欲張る。その結果、仕掛けた情報が埋もれ認知されない。こんな愚が繰り返されている。