できる人の想像力

まだ一ヵ月ほど先の仕事だが、二部構成の講演がある。第一部と第二部の講師は別、というのが通常だが、どちらもぼくが担当する。第一部がプロフェッショナル論で、第二部がマーケティング論。同一講師が別のテーマを語るケースは少ないが、これがぼくの馴染んだ欲張りパターンだ。聞く方も話す方も一テーマ4時間よりは二つのテーマを各2時間のほうが集中しやすい。別にテーマ領域の広さを自慢しているわけではない。一見異なった二つのテーマには共通のコンセプトや考え方が横たわっているものである。同日ゆえ学習の相乗効果も高い。何よりも、同額報酬で二本立てだからお得だ。

第一部のプロフェッショナル論については、ここ数年、仕事の作法やプロの仕事術、あるいは発想の達人などの名称で講演と研修をしてきた。動機はいたって素朴だ。その道の専門家はどのようにして一人前になっていくのか、ひいてはどのように学べばそのようになれるのか、その学び方にぼくごときが少しでも関与して自己訓練を手伝えないかという思いがある。NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』を見て感心することが多いが、特に番組に大きく影響を受けた結果ではない。

当然のことながら、仕事ごとにプロフェッショナルの極意や流儀は異なる。これまでに同番組が取り上げた専門家で言えば、たとえばマグロの仲買人と遭難救援隊員とでは技も道も精神も大いに違っている。おそらく一人前になるのに要する歳月も長短あるだろう。にもかかわらず、プロフェッショナルの誰もが等しく達している境地を窺い知ることはできる。共通の感覚や精神や頭脳の働きなどが一つの型として浮かび上がってくるのだ。いろんなプロフェッショナルと出会い観察し雑多に本も読んだ。そして未だ行く手に険しい道があることを自覚しつつも、少しずつ成長している自分自身の体験をもなぞっているうちに、数年前から「鍵を握っているのは想像力だ」という確信を得るようになった。


「いやいや、年季や経験や場数こそがものを言うのではないのか」という異論が立つかもしれない。しかし、よく考えてみれば、その類が高度な専門性の証になるとはかぎらない。天与の才を論うとキリがないから、同等の能力でその道に入った二人を仮定しよう。同年数で同経験を重ね同じ場数を踏んだとしても、そこにプロフェッショナル度の差が出るのはなぜか。固有の経験は、確実な積み重ねであるだけに基礎固めに力を貸すが、他方、偏ることもあるし融通性を欠くこともある。経験が未知の領域で応用力を発揮するためには、基礎的な技術が想像力と出合わねばならないだろう。

ここまでかたくなに難しく考えなくてもいい。ぼくたちは、その人のキャリアによって専門家や名人を感じることは少ないのだ。いたずらにキャリアだけを積みながら、プロフェッショナルからは程遠い凡俗はいくらでもいる。協力会社の新人が何度もミスを重ねるので一言、二言意見したら、「今後は御社にはベテランを起用しますのでご容赦ください」と謝罪されたとしよう。それであなたは諸手を挙げて小躍りするか。否である。そのベテランが「できる人」という信憑性は、年季と経験によるだけでは確約されない。

ぼくの知るプロフェッショナルたちは、決して経験に安住しないし、技量そのものにもこだわらない。彼らはほぼ共通して機転が働く。みんなよく先を読んでいる。先を読むが、ありとあらゆるシミュレーションを立てるわけではない。そんなムダをするのはアマチュアだ。プロフェッショナルは暗黙知によって要所だけを読む。結果の両極を読み、その間に起りうる状況をつぶさに想定せずとも、ものの見事に対応してみせる。それこそ想像力の手並みなのだ。プロフェッショナルはつねに期待される以上の成果を生み出す。その能力の拠り所を信念や使命感ととらえてもいいが、もっとも具体的でぼくたちが自己研鑽できそうなのが想像力だと思うのである。 

根源的なヒューマンスキルとは?

気に入っている笑話がある。Cレベルの差別用語が含まれており、「十分に注意」して使う必要があるものの、出版されている本からそのまま引用するので寛容のほどお願いしたい。題して「シェアNo.1を目指して」というジョークだ。

ある乞食の前に神が降り立ち、一つだけ願いを叶えてやろうと言った。乞食は懇願した。「お願いです。最近物乞いの競争が激しくなっています。どうか私をこの町でたった一人の乞食にしてください。」

抱腹絶倒の笑いではないが、人間臭い可笑おかしみが漂う。気がつけば、謙虚さとプロフェッショナル意識に感心してしまっている。生涯たった一度の願い事を叶えるチャンスなのに、「私を億万長者にしてください」と嘆願せずに、「オンリーワンにしてくれ」と頼む。当該市場でのオンリーワンはそのまま占有率ナンバーワンになる(但し、ナンバーワンはオンリーワンとはかぎらない)。競合相手がいなくなって市場独占が実現する。しかし、競合相手の取り分が自分に回ってくる保証はない。もしかすると、それぞれにお得意さんがいたかもしれないからだ。「あいつには恵んだけれど、お前にはやらん」というケースもありうる。したがって、市場でのオンリーワンが確定してもなお、彼はこれからも営業努力を続けることになるだろう。

もちろん大統領やマンションオーナーや宝くじ一等当選を願ってもよかった。しかし、彼は「業界トップ」になることを望んだ。名実ともに現業を究めたいという彼の思いを尊いものと感じるのは異様なのだろうか。どこか彼に共感するのはぼくだけなのか。自分は億万長者などになりたいのではなく、またそうなるために現在の職業を選んだのではない。一番になれるか固有の存在になれるかどうかはわからないが、プロフェッショナルを究めたい――そう考えている職業人は少なくないはずだ。


最高善を幸福としたアリストテレスにしたがえば、「私を幸せな人間にしてください」とお願いすればすべてが叶う(厚かましく「世界一幸せな」などと言うことなかれ)。アリストテレスによると、財産であろうが友人であろうが愛であろうが、何を求めようとも、究極は「幸福のため」なのだそうだ。幸福に対して、「何のための幸福?」とは問えない。いくら幸福以上の価値を探しても、「幸福は幸福のため」という無限連鎖が続くのだ。人は幸福になるために仕事に従事し生活を営んでいる。アマノジャクなぼくは大っぴらに幸福を掲げるのを好まないので、愉快や上機嫌に言い換えている。

ある日、幸運なあなたの前に神が降り立つとしよう。そして「何でも叶えてやる」ではなく、「一つだけお前が望むヒューマンスキルを授けてやろう」と告げるとしよう。あなたはどんなヒューマンスキルを乞うだろうか(物乞いではなく「技乞い」や「能乞い」や「力乞い」)。これまで挑戦し学び続けてきたが、未だ道遠しにあるスキルをお願いする? それとも、ありとあらゆる能力を発揮できる手綱のようなスキルを望むのか? あるいは、もっとも得意とするスキルにさらに磨きをかけるべく、敢えて自信のあるスキルを授けてもらうのか?

もう一度確認しておこう。神が降り立って絶対に叶えてくれるスキルなのである。後にも先にも一度きりの願掛けのチャンスなのである。ぼく自身の願掛けは今日のところは伏せておくが、お節介を承知の上で、ぼくよりも一回り以上若い人々には助言しておきたい。「想像力」または「言語力」のいずれかを乞うのがいい。想像力は経験と合体して他のスキルを起動させる核となり、言語力は他者や世界との関係を深め知を広げてくれるエンジンになる。いずれも人間資質の根源であり、幸福が最高善であるのと同様に、「なぜ想像力と言語力なのか」とは問いようのない、人間固有の最高次なヒューマンスキルだとぼくは考えている。

時代のフレームと想像力

かつてポンペイの遺跡に佇んだとき、歴史の不思議に感懐を抱いた。13世紀から16世紀に生きたルネサンス人たちは、この遺跡のことを知らなかった。ポンペイがヴェスヴィオ火山の噴火によって火山灰に埋もれ「史実から消えた」のが紀元前79年のこと。そして、この遺跡が発見されたのが1599年、すでにルネサンスは余燼期に入っていた。しかも発掘が始まるのは150年後の18世紀半ばだ。さらには、遺跡の全容が解き明かされたのは20世紀に入ってからである。

ルネサンス人の過去になかった出来事が、現代のぼくたちの過去に刻まれることになった。まったく当たり前のことなのだが、ある時代に生きて別の時代に生きていないことを、「そんなもの運命だ」と片付けるだけでは想像力不足かもしれない。

知識ジャンルの広さと情報量に関するかぎり、平均的現代人は古代から中世のどんな偉人たちをもはるかに凌いでいる。彼らが一生に出合った情報量を、おそらくぼくたちは数日のうちに浴びている。ただ、思考力や洞察力は必ずしも情報量に比例しない。先人たちを圧倒する知の巨人が次から次へと出現しないところを見ると、どうやら現代人は日々接している情報を上手に吸収して知として蓄えていない様子である。


フランシス・ベーコンだったと思うが、古代ギリシア人がどんなに凄かったとしても地中海の小さな世界にいただけで、アジアや新大陸のことも知らない、世界三大発明の火薬、活版印刷、羅針盤を使ったこともない――というような批判をした。真意が「昔の一握りの知恵に縛られるな」だったのだが、「それを言っちゃおしまいよ」とついこぼしたくなってしまう。この論で言えば、いつの時代も過去人は現代人よりも料簡が狭いことになる。

先の先から見れば、過去のすべては、時代ごとのフレームに拘束された知識と情報の歴史に過ぎない。ところが、まったくそうではない。現代人が手も足も出ない想像力が何百年も何千年も前に発揮されたのである。たしかに当時の時代のフレーム内での想像だっただろう。科学万能の現代から見れば、稚拙な知識に基づく知恵だっただろう。だが、現代人も今の時代のフレームから逃れるわけにはいかない。つまり、彼らの生きた時代のフレームでものを見たり発想したりすることはできない。

情報都市に暮らして膨大な情報に接している日々。想像力は歴史上一等の輝きを見せているのか。過去人よりもたくましい創意をたずさえてよく考えているのだろうか。ぼくにはまったくそうは思えない。それどころか、情報に強く依存している分、自家製想像力は脆弱になってしまっている。情報活用スキルよりも情報に依存しないスキルが重要なのであり、「調べる癖」に負けない「想像する癖」を身につけるべきなのだ。古代ギリシア人よりもぼくたちのほうが世界の地理に詳しく知識も豊富だろうが、これはぼくたちのほうが〈世界〉をよく知っていることを意味するものではない。

現実を押し売りする人たち

仕事中なのに、仕事とまったく無関係な文言が脳内を往来することがある。たとえば「行き詰まっているときは息詰まっている」とか何とか。「咽喉の痛みには特濃ミルク8.2」とか何とか。周囲に何かがあって、それを見た結果、ことばが浮かんでくるのではない。アタマの中の別の鉱泉からフツフツと湧き出てくるのだ。

考えれば考えるほど陳腐な常套句しか思いつかないこともある。表現の枯渇状態。その突破口になってくれるのが類義語辞典だ。調子のいい時はまったくお世話にならないが、一日中引きまくっている日もある。広辞苑や新明解を適当にペラペラめくることもある。見出し語との偶然の出合いに期待する。ついさっき、「きゅう【灸】」が目に入ってきた。そして、何年か前のある事件にタイムスリップしてしまった。


それは想像力を欠く情けない話であった。東京都の「鍼、灸、あんま、マッサージ、指圧師会」が、「灸を据える」はもともと治療行為である、それを懲罰という意味で辞書に掲載しているのはけしからん、定義を変更せよとケチをつけたのである。

そう言えば、さらにずいぶん昔、医師会もクレームを申し立てたことがある。テレビドラマで医者がタバコを吸う場面があり、それに対して「医者はそんなにタバコを吸わない」と怒ったのである。「そんなに」だったか「あんなに」だったか忘れたが、とにかく「医者にヘビースモーカーはいない」あるいは「そんなにスパスパ吸わない」とでも言いたかったようだ。しかし、例外的であっても、ヘビーに下品にタバコを吸う医者の一人や二人はいるわけで、それをネタにして何が悪いのか。医者が殺人事件を起こす物語はありえないのか。

お灸の話に戻る。ぼくはお灸は平気である。平気だが、家庭用の台付きモグサとは違って、専門家の施術時は若干の緊張が走る。鍼灸はある意味でストレスをかける療法で、痛くも痒くもなければ効果がない。一瞬の直線的熱さというか痛みというか、それを快とするか不快とするかは人が決めるものだ。実際、ぼくの周囲では鍼灸の未体験者は体験者よりも圧倒的に多い。

「灸を据える」が「痛い目に合わせる」という比喩表現に使われても構わないではないか(実際に使われてきた歴史がある)。それだけ一般汎用しているのは市民権を得ている証拠だ。専門家が考えるほど、ぼくたちは想像力欠如ではない。治療行為が現実で、ペナルティが比喩表現であることくらいはちゃんとわかっている。むしろ、現実だけを反映する一義的な意味しか持たないことばがいかに退屈かという点に想像を馳せてもらいたい。

ことばは現実を反映する。しかし、そこで止まらない。現実から乖離して跳びはねる。別の意味を取り込んだり別の意味が憑依したりする。だからこそ、ことばはおもしろい。 

レオナルド・ダ・ヴィンチを語る

一昨日の夕方、熱気あふれる書評輪講会を主宰した。数えて3回目。今回は10人が参加した。語ることばや想いから熱気はほとばしったが、テーブルからも立ち上がった。と言うのも、場所が鉄板焼の店だったからである。今回は書評会と食事会を同じ場所で開催した次第だ。

一応6月まで続ける予定で1月から始めた。そのうち一度はルネサンスがらみの書物を書評するつもりにしていた。ルネサンス全般を取り上げると持ち時間10分や15分ではきつい。そこで、さほど思案することなく人物をテーマに選び、さも必然のようにレオナルド・ダ・ヴィンチに落ち着いた。そこから先で少し迷った。最近読んだ『モナ・リザの罠』(西岡文彦)にするか、『君はレオナルド・ダ・ヴィンチを知っているか』(布施英利)にするか、はたまただいぶ前に読んだレオナルド本人の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』にするか……。

結果的に『君は・・・』を取り上げることにした。レオナルドに関する知識の少ない人には、著者の言わんとすることがよく伝わりそうな気がしたからである。宇宙をかいま見た男、宇宙マクロコスモス人体ミクロコスモスを関係づけ対応させた話、生前は音楽家としての名声のほうが画家よりも上だったというエピソードなどは興味をそそる。


中高生の頃に絵画に打ち込んだ時期があって、何もわからぬままレオナルドやルネサンス期の絵画に魅せられた。とりわけ輪郭線を引かずに絵の具の明暗のコントラストだけで描いてみせる〈スフマート技法〉には目を見張った。何年か前に水彩で試みたが、人に見てもらえる出来上がりにはほど遠い。

レオナルド自身の手記を読めばわかるが、絵画技法にとどまらず、この天才は新しいテーマを次々と追究していった。手記の冒頭にはこう書かれている。

先人たちはことごとく有用な主題を選んでしまった、だから自分に残されたのは市場の値打ちのない余りものみたいなテーマばかりだ、だが、それらを引き取って何とかしてみよう。

ニッチ志向に到った趣旨が書かれている。シニカルな謙遜であり孤高の精神が滲み出る。

文章の切れ味にもこれまた感心させられる。哲学的メッセージあり、斬新なアイデアあり、鋭い視点あり。しかも、ほとんどが自信を漲らせた断定調なのだ。拾い出すとキリがないが、ぼくを反省させ、しかるべき後に心強くしてくれた箴言が二つある。その一つ。

権威を引いて論ずるものは才能にあらず。

若い頃、引用文だらけの書物にコンプレックスを抱いたものだった。「よくもこれだけ調べたものだ」と感心し、根拠のない自分の勝手気まま思考を責めたりもした。しかしだ、「偉い誰々がこう言っている」などという引用そのものは、努力と熱意ではあるだろうが、才能なんぞではない――レオナルドはこう言ってくれているのである。そんなことよりも自力で考えて論じなさいと励ます。

もう一つの章句もこれと連動する。

想像力は諸感覚の手綱である。

きみはいろいろ見聞したり触ったりするだろうが、そうして感知する物事や状態の大きさ、形、色や味、匂いや音・声などをつかさどっているのがイマジネーションなんだ、それなくしてはきみの感覚なんてうまく機能しないぞ、というふうにぼくは解釈している。観察や体験なども想像力でうまくコントロールしないと功を奏さない。ぼくが企画の研修のプロローグで想像力や発想についてかたくなに語り続けるのは、このことばが大きな後押しになっているからだ。なお、ぼくが出会った経験至上主義者で想像力が逞しかった人は一人もいない。

満悦厳禁。レオナルド・ダ・ヴィンチという権威を引いても、これはゆめゆめ才能ではない。いや、もしかしたら、天才レオナルドならこう言うかもしれない。「わしをそこらに五万といる権威と同じにせんでくれ。わしが綴ったことばで使えるものがあれば何でも使ってくれたらいい。五百年後もまだ光が失せていないのなら……」。