愚者と賢者

十日前に自宅近くの寺の前を通りかかった。ふと貼り出されている今月のことばに目が止まった。「愚者は教えたがり、賢者は学びたがる」と筆書きされている。法句経の「もしも愚者が愚かであると知れば、すなわち賢者である。愚者であって、しかも自ら賢者と思う者こそ、愚者と名付けられる」を思い出した。この種の「命題」を見ると是非を考えてみたくなる。まさか本能の仕業ではない。後天的に獲得した職業的習癖のせいだと思う。

問いにせよ命題にせよ、何事かについて議論しようと思えば、定義に知らん顔はできない。弁論術が生まれた古代ギリシアの時代から議論の出発点に定義が置かれるのは当たり前であったし、定義を巡る解釈は議論を闘わせる随所で争点になるものだ。堂々巡りになったり退屈になったりもするが、定義論争を避けて通ることはできない。定義をおざなりにしてしまうと、行き場のない「ケースバイケース論」や「人それぞれ論」の応酬に終始し、挙句の果ては泥沼でもがいて責任をなすり合うことになる。

話を戻すと、愚者と賢者の定義をおろそかにしたままで「愚者は教えたがり、賢者は学びたがる」の是非に判断を下せない。この命題、冷静に考えると、教えたがるのであるから教える何かを有しているに違いない。愚者ではあるが無知ではないのだろう。また、知は無限であるから、どんな賢者にしても学びに終止符を打つことはできそうもない。賢者だからこそ、おそらく学ぶ(そして、学べば学ぶほど無知を痛感する)。賢者はつねに知的好奇心を旺盛にしている。


命題の「教える」と「学ぶ」は辞書の定義通りでいい。やはり焦点は愚者と賢者の定義に落ち着くしかないのか。いや、ぼくは保留したい。愚者も賢者も辞書通りでいい。むしろ注目すべきは「~したがる」という表現のほうである。これは強い願望を表すが、さらりとした願望ではなく、意固地でわがままで病みつきのニュアンスが強い。では、教える、学ぶ、愚者、賢者などの用語をそのままにしておいて、命題を読み替えてみようではないか。

「愚者は意地になって教えようとし、賢者は意地になって学ぼうとする」

どうだろう。ぼくがひねくれているせいかもしれないが、命題の前段にはうなずけるが、後段には首をかしげてしまう。この命題の書き手は、学ぶことを教えることの優位という前提に立っているのだ。学ぶことと教えることのいずれかが他方の上位であるはずがない。対象が何であれ、やみくもに意地を張らないのが賢者であり、対象が何であれ、いつも意地を張るのが愚者ではないか。賢者は素直で淡々としており、愚者は色めき立つのである。というわけで、もう一度読み替えてみる。

「賢者は学び教え、愚者は学びたがり教えたがる」

これはこれで行間を読まねばならない一文になってしまった。愚者と賢者の本質や相違を語るとき、一文でスマートに表現しようなどと思わないほうがよさそうだ。最近名言集の類がもてはやされているが、格言や箴言は「点」である。「点」は読み損なうことが多いから、時々「線」にも親しむべきなのだろう、愚者だからこそ。こう自覚したぼくは、いったい愚者なのか賢者なのか。

意地を動かす「てこの原理」

法句経ほっくきょう』は、釈迦の真理のことばとして有名な原始仏典である。その中に次のような一節がある。

まことに、みずから悪をなしてみずから傷つき、みずから悪をなさずしてみずからきよらかである。浄と不浄とはおのれみずからに属し、誰も他人を浄めることはできない。

鈴木大拙師はこの一節に言及して次のように語る。

この詩はあまりにも個人主義的すぎるかもしれない。だが、結局は、人は喉が渇いた時には、みずからの手でコップを傾けなければならない。天国、もしくは地獄では、誰も自分の代理をつとめてくれる者はいないではないか。

ぼくには天国も地獄も想像はつかないが、現世においてもこの謂いは何一つ変わらないと考える。常套句を用いれば、「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」ということだ。たとえば、あなたに誰かが手を差し伸べたとしよう。その手をつかむか無視するかは、あなた次第である。つかまなくても、辛抱強い人ならしばらく手を差し伸べ続けてくれるだろうが、そんな奇特な人はめったにいない。やがて手を引っ込めてあなたのもとを去っていくだろう。

正道と邪道があるとき、「こちらが正道ですよ」と誠意を込めて念押ししても、意固地なまでに邪道に足を踏み出してしまう人たちがいる。冷静な慧眼を少し働かせるだけで邪道であることが明らかになるにもかかわらず、これまでの生活様式や価値観が強く自分を支配しているから、意地はめったなことでは崩れない。意地はいつも偏見の温床になる。意地を「我」と言い換えてもいい。


放置しておくと、偏見は増殖し続け重厚長大化する。強い偏見の持ち主は、親しい人が差し伸べるコップの水に見向きもしない「偏飲家」なのだ。彼らは周囲の好意を拒絶して、ますます邪道へとひた走る。排他的な一つの意地ほど具合の悪いものはないのである。どうすれば、こんな愚に目覚めることができるだろうか。おそらく、己の意見とその対極にある異見・・の間の往復運動によってのみ、ぼくたちは偏見を揺さぶることができるように思う。

しかし、どんなにあがいても、「時代が共有する偏見」から完全に逃れることはできそうもない。そもそもぼくたちが今を生きるうえで身につけてきた知は時代を色濃く反映している。時代の基盤にある知の総体的な枠組み――いわゆる〈エピステーメー〉――はぼくたちをマリオネットよろしく操る見えざる指使いなのである。それでもなお、その枠内にあって頑なな意見の影に異見の光を照射することはできないものか。ぼくはそのように考えて、異種意見間の対話やディベートに一縷の望みをかけてきた。

ある意見に対する異見は「てこ」になってくれる。〈てこの原理〉とは、言うまでもないが、労力少なくして重いものを動かすことだ。残念ながら、てこの役を引き受けてくれる人はおいそれとはいない。しかし、心配無用、個人的な意地も時代の偏見をも動かしてくれる貴重なてこがある。それは時代を遡って出合う古典の知だ。古典は、ぼくたちを縛りつけている意地や偏見を持ち上げて、「一見でかくて重そうに見えるが、張り子の虎さ」と言わんばかりにお手本を示してくれる。お手本はぼくたちの知を整えてくれる。

但し、無条件的・無批判的に古典に迎合するのも考えものだ。時には、己のてこでずっしりと重くのしかかる古典のほうを揺り動かしてみるべきだろう。意見に対する異見、その異見に対する別の異見、そのまた異見……必ずしもジンテーゼを目指す必要はなく、テーゼとアンチテーゼを繰り返すだけでも偏見をある程度封じ込めることができるのである。