流れと成り行き

流れと言えば、つい最近では「立ち合いは強く当たって、後は流れでお願いします」が傑作だった。完全なシナリオを作ると八百長がバレる。かと言って、まったくの白紙状態では想定外の変化に対応できない。というわけで、「初期設定」だけしておいて、「後は流れ」になるのだろう。ゼロの状態から流れは生まれない。最初の動きや方向性を踏まえてスムーズに流れてもらわなくては困る。

流れで行くのも様子を見るのもいいだろう。だが、往々にして、「流れでいきましょう」と発言する張本人が流れも様子も読めないから滑稽である。会合に遅れてきて、それまでの経緯がまったくわからないまま、流れに乗れていると錯覚する御仁。「ちょっと様子を見てきます」ということばなどほとんど信用できない。そもそも流れや様子という表現で場を凌ごうとする魂胆が見苦しい。

頭が状況についていけていないのに、舌だけが空回り気味に滑るアナウンサーが、びわこマラソンの実況放送の冒頭でつまらぬことを口走った。先頭集団が競技場をちょうど出たあたりで、「昨年はここで若干アクシデントがありました」と言ったのだ。当然続くはずのアクシデントの中身を待っていたら、話はそれきりで、レース実況を平然と続けている。何が若干のアクシデントなのか。みなまで言わないのなら、こんな話を持ち出す必要はなかった。同じ場所を走る選手たちを見て昨年の光景が浮かび、流れで喋った。しかし、昨年のマラソンを見ていない視聴者はその流れに乗れない。


何もかも予定通りに運ぼうとすれば、発想は硬直化するし手順はマニュアル化する。だから、流れや様子を見る余裕――あるいは経過観察――があってもいいし、成り行きを見て臨機応変に振る舞うのも悪くない。しかし、成り行きには功罪がある。臨機応変という〈功〉になればいいが、主体性の放棄という〈罪〉もある。

仕事でも生活でも一度決めたことを変更せざるをえないことがある。たまにはいいが、のべつまくなしでは主体性はおろか自分をも見失ってしまう。日々の先約や主体的な計画が、いとも簡単にふいの来客や雑用によって潰れてしまう。崩れるような意思は意思ではなかったと言わざるをえない。趣味にしてもメセナなどの企業活動にしても、やろうと決めたなら外的な変化に右往左往して断念してはいけないのである。

「忙しくて、◯◯したくてもできない」という愚痴をこぼしているうちに、人生はあっと言う間に過ぎてしまう。流れや成り行き任せは多忙の原因の一つである。そして、多忙ゆえにできなかったことは、しなくてもよかったことに違いない。やろうと思っていてやらなかったことなどは、強い意思に支えられた、真に欲することではなかったと見なすべきだろう。平然と流れに棹差す生き方を目指すなら、桁外れの才能と決断力を身につけるのが先だ。