「有用」よりも「手がかり」

3日前のブログの続編。今年7月に開講した私塾大阪講座の冒頭で、ぼくは「力を込めて」目指すべき学習の方向性をおおむね次のように伝えた。

現在の自分が容易に越えられるバーの位置がある。何度か跳んで習熟すれば、次にバーを高めに引き上げなければ意味がない。従来の跳躍能力ではいかんともしがたい高さにバーを設定する――ここに知の学びの真価がある。学習時に体験していない高さのハードルに仕事で遭遇しても、十中八九こなすことはできない。練習以上の成果を本番ではめったに発揮できないのだ。閾値しきいち越えは難題に挑戦する習慣形成の賜物である。

難問であれ奇問であれ、自ら発した問いにせよ提示され遭遇した問題にせよ、問うことと解こうとすることによって知力は引き上げられる。解けたかどうかは別問題である。解けなければ快感法則が崩れるだろうが、そんなことは現実の仕事にあっては日常茶飯事のことではないか。とにかく問い続け解き続ける。考えたことのないことを考えてみる。このような学習の連続によってのみ知は現実へとスタンバイする。


えらく硬派な話をしたわけだ。ぼくの言いたいのは、「わかりやすさ」を重んじているかぎり、学習効果などまったく芽生えないということである。たとえば、わかりやすい説明を受ける。当然理解しやすい。あるいは理解したという気にはなる。しかし、この理解は現在の知力においておこなわれたのである。知力は背伸びもしていないし、汗もかいていない。やがてそんな説明内容は脳内で埋没するか消えてしまう。「わかりやすさ」は快感法則を満たすだけであって、アウトプット能力にはほとんど役立たない。

書店で「〇〇入門」という本を手に取る。ところが、読んでみると手も足も出ない。「何が入門だ!?」と腹立たしくなる。だが、「難しい入門」、おおいに結構だと思う。その〇〇というテーマには奥行きがあるのだろうし、〇〇というテーマに関して現在の自分があまりにも未熟だと痛感すればいいだけの話。それでこそ学習の意義がある。学習とは学習のためにあるのではなく、しかるべき現実世界の本番のための鍛錬の役を担っている。

人類の歴史には有用と手抜きの工夫を求めてきた流れがあるが、考えることすらも手抜きし始めているようである。学ぶことに関しても有用ばかりを求める風潮が加速してきた。そこには「早く身につけたい」という願望が潜んでいる。早く身につけたいから「わかりやすさ」が必須条件になる。その結果、「わかった、満足した」で終わる。気がつけば能力自体は何も変わっていない。そろそろ「悪銭身につかず」を真剣に肝に銘ずるべきだろう。学習を有用目的の内に留めてはならない。それは知の停滞を意味する。

学習とは本番に向けた「手がかりの模索」である。手がかりは答の手前にあって、答らしきものをほのめかすヒントに過ぎない。使えるかどうかすらわからない。しかし、それでいいのである。教えられてわかるのは所詮他力依存であり、本番では役に立たない。誤解を恐れずに言えば、「わかりにくい手がかり」が自力理解と自力思考を促す。いつの時代も仕事で有用になるのはこちらのほうである。