批判精神と自己検証

批判に弱い人間と付き合っていると疲れる。棘を抜き、辛口表現をオブラートで包む必要があるから。いつも顔色をうかがい傷つけまいと差し障りのない寸評でお茶を濁すことになる。疲れるだけならまだ我慢するが、こんなうわべの物分かりの良さを演じていると、こっちの脳が軟化してしまう。付き合いが続くものの、お互いに成長できる見込みはまったくない。

以前アメリカのコミュニケーションの専門家が書いた本を読んで愕然としたことがあった。「部下が出来の悪いレポートを持ってきた。あなたはどうコメントし、対応するか?」というような設問がある。四択。「こんなもの話にならん!」や「もう一度やり直しだ!」の類が最初の三つの選択肢になっており、四番目が「きみは普通この種のレポートは上手だが、今回はちょっと残念なところがある。一緒に考えてみようじゃないか」のようなコメント。著者はこれを正解としている。優しさにもほどがある。

「きみ」という部下がこの種のレポートが普段から下手だったら、どうするのか。「ちょっと残念」も「とても残念」も採択できないという点では同じだ。こんなところに「物は言いよう」などという法則を適用するのは場違いなのである。ぼくも「ダメ! やり直せ!」には与しない。自力でやってダメだった人は、しかるべき助言もなしに再挑戦してもたいていダメである。だから「一緒に問題検証すること」には賛成だ。けれども、プロフェッショナルどうしなら、少しでもダメなものを褒めてはいけないのである。生意気なことを言うようだが、白熱教室のマイケル・サンデルの設問やハーバード大学の学生の答えにも同種の骨の無さを感じて情けなくなる。


共感と賞賛し合うだけの甘い関係を求める人たちが少しずつぼくの回りから減っていく。寂寞感に耐えかねないなどということはないから、去る者を追わない。しかし、よく考えてみよう。評価してもらうことと批判されることは二つの別のことではない。弱点や問題点を指摘され、納得すれば反省して対策を立てればいいだけの話だ。批判精神が横溢する関係に身を置くようにすれば、仮に批判者が不在でも自己チェックする習慣が身についてくる。自己検証能力は希少なヒューマンスキルの一つなのである。

事実認識、知識、意見、価値観、方法、生活習慣・態度、人生観、人間性・人格……批判の対象はいろいろである。事実誤認を指摘され意見を批評されるのはいいが、矛先が人生観や人間性に向けられるとグサッとくる。しかし、対象などどうでもいい。要は、批判者の批判行為が善意か悪意か、助言か非難か、啓発か否定かをよく見極めればいいのだ。空砲と実弾の区別がつかない鈍い感覚こそを大いに自省すべきだろう。

別に硬派を気取っているわけではない。ある人にとって軽いことが、別の人にとって重いことくらい百も承知である。ある人は批判を受け止めるし、別の人は批判を聞き流したり苛立ったりする。プライドなのか別の何かがそうさせるのかわからないが、批判の負荷に耐えられなければ高みに到ることなど望めないだろう。リーダー側に立ち始めたら、誰かからの批判機会は当然減る。ここを境にして裸の王様度が強くなる。だからこそ、その時に備えて日頃から自己検証力を高めておかねばならないのである。自分が自分に一番辛い点数をつけるということだ。最近のリーダーを見ていると、自画自賛が過ぎるとつくづく思う。ちょっとハードワークするたびにマッサージや温泉やご馳走などのご褒美とは、自分に甘すぎるのではないか。

少々苦心する年賀状テーマ

師走である。師走と言えば、年末ジャンボ宝くじ、流行語大賞、M1などの新しいイベントが話題をさらうようになった。昔ながらの風物詩は息が絶え、街も人心も季節性と縁を切っている様子である。忘年会は景気とは無関係にそこそこ賑わうのだろうか。ぎっしり詰まった忘年会のスケジュールを自慢する知り合いがいる。年末に10数回も仰々しい酒盛りをするとは、忘れたくてたまらない一年だったのだろう。何度でも忘年会に出るのは自由だが、その数を威張るのはやめたほうがいい。

かろうじて粘っている年代物の風物詩は紅白歌合戦と年賀状くらいのものか。いずれも惰性に流れているように見える。惰性に同調することはないのだが、年賀状をどうするかという決断は意外にむずかしい。紅白はテレビを見なければ済むが、年賀状は双方向性のご挨拶だ。自分がやめても、年賀状は送られてくる。数百枚の年賀状をもらっておいて知らん顔する度胸は、今のところぼくにはない。というわけで、年賀状の文面を考えるのは今年もぼくの風物詩の一つになる。正確に言うと、その風物詩は今日の午後に終わった。

ぼくの年賀状には10数年続けてきた様式とテーマの特性がある。四百字詰め原稿用紙にして5枚の文章量に、時事性、正論、逆説、批判精神、ユーモアなどをそれぞれ配合している。敢えて「長年の読者」と呼ぶが、彼らはテーマの癖をつかんでいるだろうが、来年初めて受け取る人は少し困惑するはずである。即座に真意が読めないのは言うまでもなく、なぜこんなことを年賀状に書くのかがわからないからである。同情のいたりである。


一年間無為徒食に過ごしてこなかったし、後顧の憂いなきように仕事にも励んできたつもりだ。だから、生意気なことを言うようだが、書きたいテーマはいくらでもある。にもかかわらず、昨年に続いて今年もテーマ探しに戸惑った。先に書いたように、逆説と批判精神とユーモアをテーマに込めるのだから、くすぶっている時代に少々合いにくい。「こいつ、時代や社会の空気も読まずに、何を書いているんだ!」という反感を招かないともかぎらないのだ。だからと言って、ダメなものをダメとか、美しいものを美しいと唱える写実主義的テーマも文体も苦手なのである。

思いきってスタイルを変えようかとも思った。ほんの数時間だが少々悩みもした。しかし、腹を決めて、昨年まで続けてきた流儀を踏襲することにした。そうと決めたら話は早く、今朝2時間ほどで一気に書き上げた。テーマを決めたのはむろんぼく自身である。しかし、前提に時代がある。自分勝手にテーマを選んで書いてきたつもりだが、このブログ同様に、テーマは自分と時代が一体となって決まることがよくわかった。

今日の時点で年賀状を公開するわけにはいかない。というわけで、二〇〇九年度の年賀状(2009年賀状.pdf)を紹介しておく。大半の読者がこの年賀状を受け取っているはずなのだが、文面を覚えている人は皆無だろう。それはそれで何ら問題はない。気に入った本でさえ再読しないのに、他人の年賀状を座右の銘のごとく扱う義務などないのである。さて、年初から一年経過した今、再読して思い出してくれる奇特な読者はいるのだろうか。

余計なことを考えたり口に出す精神

まったく縁のない話は、いくら想像を働かせてもまったくわからない。まったくわからないことに絡んだりツッコミを入れたりすることは不可能である。その話題や事柄と接点がなければ、批判すらできない。批判精神を高尚なるものと思いがちだが、そんな大それたものではない。すでに知っているか、何らかの関心があることに対して「ちょっと待てよ」というのが批判精神だ。その批判精神が「余計なことを考えさせたり、一言口に出させたり」するのである(言うまでもなく、知らないことや関心のないことは賞賛も批判もできないし、するべきでもない)。

一昨日ある格言(諺?)を初めて知った。「碁に負けたら将棋に勝て」がそれだ。ほほう、こんな言い回しがあるのかと淡々と吟味してみた。ぼくは碁は知らない。周囲に碁打ちがおらず、いっさい学ぶ機会がなかった。将棋は二十代の頃に二年間ほど嵌まった。基本は独習したが何度かプロにも教わったし、道場にも通った。実戦機会が少なく「ペーパー四段、手筋三段、実力二段」などとからかわれた。おもしろいことに、道場ナンバーワンのアマチュア四段に勝ったこともあれば、中学一年の三級に惨敗することもあった。波は激しいほうだが、決してヘボではないと自覚している。

さて、「碁に負けたら将棋に勝て」。碁を知らなかったら、そもそも碁を打たないだろうから、碁に負けることはない。その彼が将棋を知っているにしても、「碁に負けたら」という仮定が成り立たない。次に、碁は知っているけれど将棋は知らないという別の彼にも当てはまらない。「碁で負けた。ちくしょう、次は将棋だ」と矛先を変えることができないからである。もうお分かりだろう。これは碁と将棋の両方をたしなむ人に向けられた格言なのである。


ところで、あることで負けたけれど別のことで勝てば相殺できるのだろうか。「幸福度ではお前に負けるが、頭の良さでは勝つぞ」と言ってみたところで、単なる負け惜しみではないか。賢さなどよりも幸福のほうが絶対にいいとぼくは思う。もっと言えば、幸福でありさえすれば、他のすべてが連戦連敗でもいいのかもしれない。

以前NHKの衛星放送で藤山直美と岸部一徳が対談をしていた。一言一句まで正確には覚えていないが、「舞台で失敗して憂さ晴らし云々」と語る岸部に対して、藤山が「舞台で失敗したもんは舞台で取り返さなあかん!」とたしなめていた。10歳以上も年上になかなか飛ばせない檄である。こういうのを最近は「リベンジ」ということばで済ませるのだが、誰か相手がいて仕返しをしているわけではない。ダメだ失敗だと思うたびに対象を変えたりレベルを落としていては、永久にプロフェッショナルにはなれないだろう。

昨日、日本対オーストラリアのサッカーの試合を観戦した。ワールドカップドイツ大会の借りを返すだのリベンジするだの騒いでいたが、舞台違いじゃないかとぼくは思っていた。負けたのはワールドカップの本場所だ。今回はアジア予選だ。「世界で負けたらアジアで勝て」などということは、アジアの偏差値が世界を逆転してから言うべきだ。結果、引き分けだった。「世界で負けてアジアで引き分け」では格好はつかない。


碁と将棋の話に戻る。あなたが完敗に近い形で碁で負けたとする。悔しいあなたは負けた相手に「ようし、今度は将棋だ!」と挑戦する。相手は困惑気味にこう言う――「あのう、私、将棋は指せないんです」。将棋で勝つどころか、将棋で戦えないのだ。さあ、あなたはどうする? 将来彼を倒せるようになるまで碁を猛勉強するか、それとも彼に将棋を教えて早々に勝利の美酒に酔うか。