旅先のリスクマネジメント(6) トイレ問題

学生の頃からの個人的な理由があって、ぼくの旅先はほぼヨーロッパ、とりわけイタリアとフランスに集中している。たわいもない理由なのでここで公にするほどでもない。何かの機会があればいつか書いてみるかもしれない。ともあれ、他の国へも少々旅はしている。イタリア語と英語はまずまずなので、語学が苦手な人に比べれば危機回避の術は少しは長けているはず。それでも、独学で少し齧ったフランス語、ドイツ語、スペイン語のほうは、絶対的なリスニング量が少ないから、たかが知れている。出掛ける直前または現地に行ってから、使う可能性の高そうな表現のみを集中的に覚えて凌いでいるのが実情だ。

旅行会話集の類は場面を幅広く網羅しているから、何もかも覚えようとしても無理である。挨拶と道や場所の尋ね方、それに料理の注文方法の3章だけを押さえておけばいい。買物好きにとっては数字の聴き取りはかなり難しいが、必須だろう。また、会う人のほとんどが初対面なので、「お元気ですか?」に出番はほとんどない。

ところで、語学はまったくダメという人でも、絶対に覚えておくべき必須表現が一つある。それは、「すみません、トイレはどこですか?」である。街中であろうとカフェやレストラン内であろうと、この言い回しの頻出機会はとてつもなく多い。
 
欧州の旅ではトイレ探しにかなりの時間とエネルギーを費やすことになる。ぼくは決して頻尿ではないが、あちらの連中に比べると日本人はトイレが近いような気がする。外出すると喉がよく渇くのは、湿度が低くて空気が乾燥しているせいかもしれない。ミネラルウォーターが安いから部屋にいてもよく飲むし、食事の折にも当たり前のようにワインと水を飲む。水分摂取は間違いなく増える。加えて、公衆便所が極端に少ない。モールやデパートでさっさと用を済ませるわけにもいかない。広い駅でもトイレの場所は一ヵ所にしかなかったりする。しかも、そのトイレの場所を探すのが一苦労なのである。探し当てたと思ったら、そこが有料トイレ。そう、だから「トイレはどこ?」とセットにして小銭をいつも携えておかねばならない。紙幣をくずすために売店で水を買って飲むと余計にトイレが近くなってしまう。
 

有料トイレのレシート.jpgこの写真は50ユーロセントと手書きされた有料トイレの領収書である。スタンプで番号を押してあるが、単なる事務処理用であって、その番号のついた便器へ行けという意味ではない。入口で当番しているおじさんかおばさんにお金を先払いし、レシートを受け取って改札を通過する。駅に改札がないくせに、トイレにはちゃんと設けてある。こんな領収書をもらっても申告できるわけでもあるまいが、いつもの癖で財布に入れてしまう。半月も旅したら56枚はたまる。なお、男性よりも女性のトイレ代のほうが料金が高い場合もある。
 
急に尿意をもよおした。長時間探しているうちに漏らしそうになる……大いにありうる話である。こうなると、フランスならカフェに、イタリアならバールに行ってコーヒーを注文するしかない。現地の人は店のどこにトイレがあるか知っているから、店に入っても飲み物を注文せずにさっさと用を済まして出て行く。旅の異邦人はそういうわけにもいかない。我慢の限界であっても、エスプレッソを頼んでぐいっと一杯飲み干し、バリスタに「トイレはどこかな?」と聞く手順を踏まねばならない。
「そこ」とか一語で指を差されて「そこ」を目指しても、推測した「そこ」にトイレが見つからないことはよくある。隠れ家みたいになっていたりする。「突き当りの左に階段がある。そこを降りて正面だよ」などと説明されるのはありがたいが、語学オンチにはこれがまた大きな負荷になるだろう。やっと無事にトイレに入ったら、今度は鍵のかけ方がわからない、水を流すボタンの位置がわからないなどは当たり前。おまけに、怪しい先客がいないかの用心も欠かせない。天井から釣り下がっている紐などを下手に引っ張るとブザーが鳴るから要注意だ。
 
有料トイレ スイスフラン.jpg
イタリア語圏のスイスの街に行った時の話。言葉は困らなかったが、トイレで困った。外出中はめったにないことなのだが、その時は便意をもよおした。トイレの場所を聞いて駆け込んだ。係はいないが、ドアのノブの下に硬貨を入れて中に入る有料トイレだった。数字が書いてあるので、ユーロ硬貨を入れるが返却口に戻るばかりで、ドアは開いてくれない。ノックをしたが中はどうやら空いている。血迷った眼でよく見たら、ユーロではなくフランだった。そうか、イタリア語圏だけれど通貨はスイスフランなんだ……。
 
限界を感じながらも息せき切って両替カウンターへ走り込み、50ユーロ紙幣を差し出してフラン紙幣に替えた。その紙幣を握りしめて売店へ行き、キャンディか何かを買って小銭でお釣りを受け取った。再びトイレに戻り、震えの来ている指先をもどかしくも制御して硬貨をつまみ、投入口に狙いを定めて放り込んだ。ドアが開いた。まるで「開けごま」と祈る思いであった。スイスフランなど手元にあっても仕方がないから、乗り物と飲食に使いきった。手元に残ったのがこのコインである。帰国後しばらくは、このコインを見るたびに条件反射的に便意を催したものだ。

問いは人を表わす

1月の会読会でメンバーの一人が問題解決のためのヒューマンスキルの本を取り上げた。彼の書評の中に「重要なのは答えることではない、問うことである」という引用があった。まったくその通りである。問いと答えはワンセットだが、答えは問いに従属するのである。そこで、「問わなければ答えは生まれない」という一行も付け加えておきたい。

問いの中身と形式を見れば、問う人がわかるし、答える人との関係もわかる。ある日突然、仲の良い同僚があなたに「オレは誰?」と聞いてきたら、穏やかではないことがわかる。だいたい二、三問ほど聞いていれば人がわかる。ちなみに、「お元気ですか?」は疑問文だが、めったなことでは実際の健康状態を尋ねてはいない。これは挨拶の変形である。若者の「元気?」は「こんにちは」に近い。英語を学習し始めた当初、“How are you?”に対して、いちいち“Fine, thank you. And you?”とアルゴリズムに忠実だったが、ぼくの問いに答えないネイティブも少なからずいて、これが挨拶の一つであることを知った。

「旅行はどうでしたか?」と聞かれるとぼくは困る。問いが大きく漠然としているからだ。だが、こんな問いには適当に答えておけばいいのである。この問いは社交辞令的な問いであって、興味に揺り動かされた素朴な問いではない。「ありがとう、よくぞ聞いてくれた。ものすごいよかったよ!」と言っておけばよろしい。おそらく相手もこう言うだろう、「へぇ~、それはよかったですね」。


インド料理店で「ナンまたはライスは食べ放題」と書いてあって、ナンを注文した。「または」だから、ナンと決めたらずっとナンだと思っていたが、食べ放題ならどっちでもいいのではないかと思い、ライスを頼んでみたらちゃんと出してくれた。メニューには「ナンとライス」と書くのが正しい。「または」や“OR”は相手に選択を迫る問いだから、「何でもあり」の食べ放題に「または」はめったに使われない。食べ放題でよくあるのは、「または」ではなく「但し」だろう。「当店はテーブルオーダー方式の食べ放題です。但し、食べ残しがございますと……」という場合。いつでも「但し」ほど恐いものはない。

「パンにされますか、それともライスですか?」は希望を尋ねている。希望を聞くのはオプションをいくつか用意できているからであり、また相手に強く関与しているからである。とは言え、オプションが多すぎると、「ランチのパスタは何にされますか?」と聞かれ、「何がありますか?」と尋ねると、50もの種類の写真メニューを見せられて困惑する。多すぎるオプションは、逆に無関心の表われになってしまう。「焼き加減は、どうされますか?」という問いは、通常、レア、ミディアム、ウェルダンの三段階の希望を聞いている。選択肢が二、三に絞られていて、なおかつ聞いてくれるときに、問う側の自分への関心と誠意を感じるのである。

一見すると、「ABか?」は二者択一を迫って険悪な空気を漂わせる。しかし、選択肢であるABが同格同等、かつ満足に関わる時、この問いは相手に対するおもてなしになる。どうでもいい相手や関心の薄い相手に、人はこのような聞き方をめったにしない。もちろん聞くこともある。その時は、どちらを選んでもマイナスになりそうとか、ジレンマに陥って答えられないなどの問いである。「転勤するのか、やめるか、いったいどっちなんだ?」などはこの一例だが、明らかに問う者はいじめかパワハラのつもりである。

自分を語り込む

挨拶とほんのわずかな会話を交わしただけ。しかも、それが初対面だったとしよう。そして、それっきりもう会うこともなさそうだとしよう。こんな一過性の関係では、その時の第一印象が刷り込まれる。やがて印象も薄れ記憶から遠ざかってしまうかもしれないが、もしいつか再会することになれば、そのときは記憶に残っている「原印象」を基に接したり会話したりすることになる

第一印象というのは、付き合いが長くなるにつれて「第一」ではなくなり、それまでの印象は会うたびに塗り替えられていく。第一印象の第一は一番ではなく、「最初の」という意味である。だから、一度だけ会っておしまいなら、その一回きりの印象、すなわち第一印象――あるいは最終印象――によって人物のすべてを描いたり全体像を語ったりすることになる。但し、何度か会う関係になれば、再会するたびに第二印象、第三印象……第X印象を抱くことになるから、印象は会うたびに更新されていく。

「あいつ、こんな性格じゃなかったはずなのに……」とあなたが感じる。だが、それは必ずしも実際にあいつの性格が変わったことを意味しない。ほとんどの場合、あなたのあいつに対する印象が変わったのである。あいつの印象は良い方にも悪い方にも変容するだろう。だからと言って、あいつが良くなったり悪くなったりしているわけではない。むしろ、前に会った時からのあなたの見方・感じ方が変わったと言うべきかもしれない。


二者間においてどのようにお互いが印象を抱くかは興味深い。お互いが正真正銘ののままの状態で対面することはほとんど稀である。ABの印象を抱く時点で、BAの印象を抱いている。ABに抱く印象には、BAを見ての反応が含まれている。つまり、ABから受ける印象はすでに「Aという自分を経由」しているのである。ABの関係は出合った瞬間から相互反応関係になっていて、独立したABという状態ではないのだ。あなたが彼に抱いた印象は、あなたに反応した彼の印象にほかならない。鏡に向かった瞬間、鏡の向こうの自分がこちらの自分を意識しているという感覚は誰にもあるだろう。あれとよく似ているのである。

第一印象の良い人と良くない人がいる。一度きりの出会いでは決定的になる。しかし、何度も会うごとに良い人だったはずがさほどでもなく、逆に良くなかった人が好印象を回復していくことがある。黙して接していたり傍観していたりするだけなら、印象変化は立ち居振る舞いによってのみ生じる。それはビジュアル的もしくは表象的なものにすぎない。見掛けの印象にさほど興味のないぼくは、多少なりとも踏み込んだ対話や問答を積み重ねて印象を実像に近づける。いや、実像など永久にわからないことは百も承知だ。しかし、お互いに対話の中に自分を語り込まねば印象はいつまでも浮ついてしまう。

沈黙は決して金などではない。むしろ「金メッキ」でしかない。かと言って、沈黙の反対に雄弁を対置させるつもりもない。ぼくが強調したいのは、自分らしく問い自分らしく答え、自分らしく自分を語り込んでいく対話の精神である。表向きだけの付き合いなら装えばいいだろうし、束の間の関係なら形式的に流せばいいだろう。本気で人間どうしが付き合うのなら、ハッピーに空気を読むだけではなく、棘も荊も覚悟した時間と意味の共有努力が必要だろう。

自分を語るのではなく、自分を「語り込む」のである。語りと語り込みの、関与の違い、まなざしの違い、相互理解の違いはきわめて大きい。

声掛けとコミュニケーション

「誰々さんがいたので声を掛けた」。よく聞く話だが、この声掛けは自然にできたのか意識してのものなのか。たまたま目と目が合ったので儀礼的にしたのか、それとも無意識のうちに笑顔で「こんにちは、お元気?」と話しかけていたのか。お互い知り合いなのに声を掛けない人もいるが、ふつうぼくたちは知人友人を見つけたら声を掛ける。では、なぜ声を掛けるのか? こんなことについてあまり考えることはないだろう。仮に考えたとしても、うまく説明できそうにもない。

ちなみに、先日ぼくは知り合いの年長の女性を見掛けたが、声を掛けずに通り過ぎた。その女性はオフィス近くのビルのオーナーで、アパレル関係の企業も経営していた。そのビルの地階に紳士服の店を長らく出していて、ぼくは十数年来の顧客であった。よくスーツやネクタイを買っていたし、あまり文句も言わないので、店にとってはいいお客さんだったはずである。その店は数年前に閉店した。しばらくしてから別の場所で再開したとの案内はもらったが、新しい店には行っていない。まあ、とにかく店舗でぼくをいつも応対していたその女性だった。遺恨もトラブルもなかった。しかし、「あ、ごぶさただなあ」と内心思いながら、すれ違うだけだった。

むずかしい話をするつもりはない。日本人の場合、たとえば、エレベーター内で見知らぬ者どうしが挨拶を交わすのは稀だ。しかし、時折り、ホテルのエレベーターに先に乗っているぼくが「開ボタン」を押さえているのを見て、入ってきたご夫婦のどちらかが目を合わせて「あ、どうもすみません」と言う場合があるし、観光客らしいその二人に「どちらからお越しですか?」と尋ねるときもある。こんなふうに声掛けすることもあるのに、旧知のあの人に気づきながら、なぜぼくは知らん顔して過ぎ去ったのか。


一言でも二言でも声を掛け合うというのは一瞬の呼吸、理由なき波長感覚の仕業と言わざるをえない。しかし、そのような、間髪を入れぬタイミングだけが声掛けの引き金になっているのか。そうかもしれない。だいぶ前に混雑する駅のホームで高校の同級生とすれ違ったが、声を掛けなかった。こちらが気づき、相手が気づかなかった。これは一瞬の呼吸が合わなかったからかもしれない。また、別のときに別の友人にばったり遭遇してお互いに指を差して名前を言い合い、一言二言どころか、しばらく立ち話をしたこともある。おそらく一瞬の呼吸が合ったのに違いない。

しかし、ほんとうに一瞬の呼吸の合う合わぬが声掛けの決定的な要因なのかと自問すると、必ずしもそうとも思えないのだ。無意識のうちに声掛けするかしないかを何か別の要因によって決定しているような気がするのである。ぼくに関するかぎり、一つ明らかになった。それは、会話が愛想だけに終わりそうな気配を感じたら、自分から声を掛けないということだ。「だいぶ暑くなってきましたね」「そうですね」「扇子がいりますよね」「そうですね」「かき氷も恋しいですな」「そうですね」……実際にあった会話だが、ことごとく「そうですね」という機械的返事で肩透かしを食らいそうな予感があれば、めったに声を掛けない。エレベーターのような閉塞空間の場合のみ、やむなく最小限の儀礼的挨拶だけで済ます。

愛想トークが苦手。おまけに社交辞令が嫌い。かと言って、何かにつけて意味を共有化すべくコミュニケーションを企んでいるのでもない。そうではなく、話すべき何かを直感できなければ、敢えて声を掛けようとしないのだ。少なくとも、同じ知り合いでも「暖簾に腕押し」や「糠に釘」のタイプを見極められるようになった。コミュニケーションという大げさなものではなく、小さな話題でも意思疎通へと開かれそうか、すぐに閉ざしてしまいそうかを、たぶん直感している。ぼくは、アルゴリズム的な音声合成人間にはめったに声を掛けないのである。