ことばは実体より奇なり

ことばと実体には誤差がある。ことばは個性だから奥ゆかしくなったりはしゃいだりする。実体を見ればすぐわかることが、ことばによってデフォルメされてわかりづらくなることがある。その逆に、わけのわからない実体を、存在以上に明快に言い当ててくれるのもことばである。「事実は小説よりも奇なり」が定説だが、「ことばは実体よりも奇なり」も言い得て妙だ。


【小話一】

夏のある日、某大学の車内吊りポスターに目が止まった。キャンパスコンセプト“Human & Heart”を見てしばし固まった。“H”の頭文字を二つ揃えていて見た目は悪くない。だが、このフレーズは「心臓外科」というニュアンスを漂わせる。ならばと外延的に説明しようとすれば、収拾がつかなくなってしまう。あまりにも多様な要素が含まれてしまうからである。

意地悪な解釈はやめる。それでも、このスローガンではインターナショナルな訴求はおぼつかない。「人類と心臓」ではなく、「人と心」を伝えたいのなら、もっと別の英語を模索してみるべきだが、このようなメッセージを大学の精神としてわざわざ口に出すまでもないだろう。この種の抽象的なコンセプトはもう一段だけ概念レベルを下りるのがいい。〈賢慮良識〉のほうが、古めかしくとも、まだしも学生に浸透させたい価値を背負っている。

【小話二】

本の題名は、著者がつける場合もあれば、編集者に一任あるいは合議して決まる場合もある。ざっと本棚を見たら、ぼくの読んでいる本のタイトルには一般名詞や固有名詞だけのものが多い(『芸術作品の根源』や『モーツァルト』や『古代ポンペイの日常生活』など)。次いで、「~とは何か」が目につく。読書性向と書名には何らかの関係があるのかもしれない。

数年前、いや、もう十年になるかもしれないが、頻繁に登場した書名が「○○する人、しない人」のパターン。「○○のいい人、悪い人」という類もある。これも本棚を見たら、この系統のが二冊あった。『運のいい人、悪い人』と『頭がヤワらかい人 カタい人』がそれ。後者の本を見て思い出した。「発想」についての講演を依頼された際に、「主催者はこの本に書いてあるような話をご希望です」と渡された一冊だ。こんな注文をつけられたら、読む気を失ってしまう。ゆえに、当然読んではいない。

やや下火になったものの、「○○○の力」も肩で風を切るように流行した。書棚を見渡したら、あるある。『ことばの力』『偶然のチカラ』『決断力』『ほんとうの心の力』『コミュニケーション力』『読書力』……。後の二冊は斎藤孝だが、この人の著書には「力」が付くのが多い印象がある。熱心に本棚を探せばたぶんもっとあるだろう。「力」という添え文字が、タイトルにパワーを授けようとする著者の「祈り」に見えてくる。

【小話三】

これも車内吊り。雑誌の広告表現だ。「ちょいダサ激カワコーデ」。大写しの女性が本人なのかどうか判別できなかったが、広告中に木村カエラと書いてあったので、読者対象はだいたい見当がつく。オジサンではあるが、この表現が「ちょっとダサいけれど、びっくりするくらい可愛いコーディネート」という意味であろうことは想像できる。「もしチガ平アヤゴーメ」、いや、「もし違っていたら、平謝り、ごめんなさい」。

数字を覚えるためのことば遊びがある。同じ日の新幹線では「0120-576-900」のフリーダイアルのルビを見てよろけそうになった。576を「こんなにロープライス」と読ませ、900を「キミを応援」と読ませる。「こんなにロープライス。キミを応援」と首尾よく覚えても、正しく数字を再現する自信はない。どう見ても、904139である(そのこころは「苦しい策」)。この日、ぼくがネットで購入した切符の受け取り予約番号は41425。講座、懇親会後に二次会があると聞いていたので、「良い夜にゴー」と覚えておいた。うまく再生できた。

本探しのおもしろさ

この本を読もう!   と決意することはめったにない。そのように狙い定めるのは一年に十数冊程度で、その種の本はだいたいすでに買っていて手元に置いている。これから買いに行く時は書名がわかっているから、大型書店では書名検索で端末を操作する。著者名で検索するのは、その著者の一冊を読んで気に入り、別の著作を探す場合に限られる。その場合でも、すでに読んだ本の著者プロフィールにたいてい代表作が載っているから、おおむね書名検索できることになる。

何年か前から古典を中心に読書しようと意識している。ここで言う古典とは「新刊ではない」と「トレンディーではない」という、ざくっと二つの条件を満たすものである。新刊でトレンディーなものをまったく読まないわけではないが、全読書の一割にも満たない程度だ。最近では『追悼「広告」の時代』と先日取り上げた『日本人へ リーダー篇』のみ(いずれも本年5月発行)。「最新何とか事情」や「〇〇の常識とウソ」のような内容は、もし強い関心があればインターネットを利用するし、たいていは新聞のコラムや記事で済ましている。

大きな書店に行く主な理由は、若い頃に読んだが、すでに処分してしまったのを買って再読するためである。ついでに、読みそびれていた作品も少々(古典と称しているが、思想や文化や歴史が中心で、文学の類はさほど多くない)。それ以外に用はないので、ほとんど立ち読みはしないが、昨日も書いたように、丸々読む気はないが、少しチェックしたい本の目ぼしい箇所のみ、ほんの2、3分ほど目を通す。なお、大書店にはテーブルと椅子まで用意して座り読みまで推奨している所があるが、そこまでするくらいならさっさと買ってしまう。


古書店では立ち読みする。これは当然のことで、そもそも古本を売る店で立ち読みしない買い方などありえない。つい先日も、電子書籍ばかりになってしまったらこの立ち読みというのが消えてしまうのか、などと思っていた。古書店の最大の愉しみは当てもなく本を探すことである。まったく興味外れのジャンルの本であっても、一冊200円などの「情報価値の高そうな本」に出合えば立ち読みすることになる。買うのはせいぜい500円くらいの本までで、平均すると300円程度の本を買い求める。

最近では『偽書百選』という本が300円だった。垣芝折多という、ペンネームであることが明らかな著者である。巻末の解題に松山巖という人物が書いている。「垣芝折多は本書を書き上げ、ゲラを直した後、一週間も経たぬうちに急逝した。いともあっけない死であった。本書の文中にも、これを一度きりの仕事とすると断わる言葉が見えるし、私にも同じようなことを話していたから、それなりに心中期するものがあったのかもしれない。私は垣芝の幼なじみである。……」

断わっておくと、垣芝と松山は同一人物で存命中である。この本で紹介されている書物は、拭座愉吉著『掃除のすゝめ』(明治七年)に始まり、春日トキ著『吾輩は妻である』(明治四十一年)、Q・リマッキー他著『スシ大スキ』(大正四年)、新宅建造著『住まいの未来』(昭和二十二年)などが続き、最後の第百書が本田要著『本を読まずに済ます法』になっている。すべての書物に3ページほどの書評もしくは解説文がついている。

『偽書百選』は二十年ほど前に週刊文春で連載されたものを収録したものだ。実は、ここに所収の百冊の本は書名にあるように「偽書」で、どれ一冊も現実に存在していない。すべて垣芝、すなわち松山の創作なのである。第四十六書の南海海雅著『第拾感主義藝術論』や第八十書の宇狩紋太著『失敗の学習』などは今すぐにでも手にとってみたいと思う魅力的な書名である。現実に存在する真書とそうでない偽書を画する一線は、手に入るか入らないかという違いのみ。ある意味で「偽書も書なり」なのかもしれない。何はともあれ、新しい文庫でも手に入る同書の初版の単行本が300円で読めるのがいい。この本ならネットでも買えるではないかと言われるかもしれないが、ぼくは試し履きもせずに靴を注文するような本の買い方になじめないのである。