続・二字熟語で遊ぶ

理論-論理.png『二字熟語で遊ぶ』を書いた直後に、読者から「こういうのもあります」と123の例が寄せられた。「高座と座高」「事故と故事」「女子と子女」などは案外気づきにくく、意味も変化するので、個人的には愉快に感じた。

その時以来、ぼくも新たに20いくつかの上下変換可能な二字熟語を見つけたので、文例とともにいくつか紹介しておくことにする。

【論理と理論】
(例)「理論」は体系的な知識、「論理」は前提から結論に到る筋道。机上だけでは役に立たないという共通点がある。

論も理も昨今あまり人気がないが、かと言って、なくてもいいのかと突き詰められるとちょっと困ってしまう。
 
【背中と中背】
(例)すべての人に「背中」らしきものはあるが、みながみな「中背」であるとはかぎらない。

かつて中肉中背が理想とされた時代があったが、ここで表現されている中肉と対比されるのは太さ・細さなのだろうか。「中背」は高さ・低さなのだろうか。太肉低背とか細肉高背に当てはまる人間はいるが、未だかつてこのような表現を見聞きしたことがない。
 
【貴兄と兄貴】
(例)「貴兄」には尊敬の念が込められ、「兄貴」には親しみの情が込められる。

貴兄と呼んだ瞬間、ちょっと身を引き締める振りをしなければならないが、兄貴と声を掛けるときは頼りにしているか甘えているのだろう。おごってもらいたければ「アニキ」と呼び掛けるのがいい。
 
【転機と機転】
(例)ちょっと「機転」を働かせていれば、あの時が人生の「転機」だということがわかったはずだ。

転機は勝手にやってくることがあるが、機転は自発的である。だから、機転のきく人間になるのは、転機を迎えることよりもむずかしいのである。
 
【落下と下落】
(例)望めば人間は「落下」することができるが、「下落」することはありえない。

人間であれモノであれ、落下できるのは物体である。下落するのは価値である。肉体としての人そのものは下落せず、人の評判や値打ちが下落するのである。
 
【分子と子分】
(例)原子が結合して「分子」になるが、親にくっついて手下になると「子分」になる。

なお、分子には分母という親の影もちらつくから、ある意味では子分なのかもしれない。異分子にならぬように保身的に振る舞う今時の組織人は、思想なき子分と言い換えてもいいだろう。

貨幣には意図がある

円高と市場介入の話ではなく、もっと身近なお金の話。先日、鶏料理の店に「二人」でランチに行った。同じ定食、700円のものを注文した。食べ終えてぼくが先にレジへと立ち、財布から「千円札」を出して店員に手渡した。ポケットから小銭入れを出さなかったし、出そうとする素振りもせず、ただ千円札を出して勘定を待った。それなのに、その店員は「ご一緒ですか?」と尋ねたのである。

一人五百円のワンコインランチなら、そう聞いてもいいかもしれない。二人分ならきっちり千円だから。けれどもランチは700円。千円では二人分はまかなえない。ゆえに、千円札を出した後に小銭を足さなかったぼくが自分一人分を払おうとしたことを、店員は即座に察知するのが当たり前だった。黙って百円硬貨3枚のお釣りをくれたらいいのである。

機転がきかないのは、「ご一緒ですか?」が口癖になっているからなのだろうか。かもしれない。しかし、だいたいにおいて、ランチの勘定が別々か一緒かは、レジでの客の振る舞いや空気でわかるものだ。レジ係なら読まなければならない。いや、そんな大げさな話ではなく、視野をほんの少し広げるだけで、ぼくの後ろの連れも財布を手にして勘定を待っていたのが見えたはず。加えて、ぼくの千円札の出し方を見れば別々の支払いというのは一目瞭然だった。「ご一緒ですか?」と聞かれて、「えっ、これ(千円札)で二人分にしてくれるの?」と切り返してもよかったが……。


論理クイズの一種に次のようなものがある。

場所は小劇場の切符売場。この小劇場には普通席と指定席があり、普通席1300円、指定席1800円の料金設定になっている。一人の客が売場で二千円を出したら、係が「普通席ですか、それとも指定席ですか?」と尋ねた。客は「普通席をお願いします」と答え、係は700円のお釣りを差し出した。続いて別の客が来て、同じく二千円を窓口に出した。すると、今度は係は何一つ尋ねることなく、「指定席ですね」と確認してから200円のお釣りを渡した。係は同じ二千円を出した二人の客に対してなぜ別々の応対をしたのだろうか? これが問題。

金持ちそうな身なりから判断した? いや、そんなバカなことはない。五千円札か一万円札を出されたら、係は「普通席ですか、指定席ですか? 何枚ですか?」と聞いたはず。これがヒントだ。


切符売場係のこの人には紙幣と硬貨の内訳パターンができているので、会話を交わさずとも出された貨幣の種類を見ただけで何枚いるとか普通席か指定席かがわかることがある。実は、最初の客が差し出した二千円は千円札二枚だった。だから、客が告げないかぎり、1300円の普通席か1800円の指定席のどちらを求めているのかはわからない。それで、聞いたのだ。ところが、二人目の客が出した二千円の内訳は千円札と五百円硬貨二枚だった。普通席なら千円札と硬貨一枚でいい。つまり、指定席を求めたことが即座にわかる。

別に大それたスキルなどではない。初歩的な推理能力である。しかし、お金を総額でとらえて貨幣の内訳で判断しない人間には、単純なお釣りの引き算すらおぼつかない。鶏料理店の店員はこのことをよく学ぶ必要がある。

便利が奪ってしまうもの

便利と不便について考える機会が増えてきた。このブログでも十数回は取り上げたように思う。ぼくの基調となる考えは、意識的に「インコンビニエンス(不便)を生きる」ということに尽きる。便利によって得たものと失ったものの収支は便利の恩恵を受けている――少なくともそう錯覚している――あいだはわからない。結果がすぐに見えればぼくたちも少々の修正を加えるが、便利の副作用はすぐには現れない。気づいた頃には手遅れということが大いにありうる。

便利のお陰で身につく能力と、不便ながらもどうにかこうにか身につける能力には甘辛あまからの度合にだいぶ違いがある。便利はおおむね「らく」と「スピード」を目指す。「イライラしないで気持よく」と言い換えてもいい。しかし、こう言った瞬間すでに破綻を来たしている。便利な自動車は便利な高速道路で渋滞してイライラと不快を招く。その結果、ドライバーたちは大いに不便を感じたりしている。ならば、始めから不便を生きれはいいではないか。

昨夜のらりくらりと本を読みながら、時折りなまくらにテレビの『エチカの鏡』を覗いていた。例のマイケル・サンデル教授のハーバード大学での講義「ジャスティス」の場面を写していた。その後は大学生のディベートに取り組む模様であった。これもちらほらと見る程度。この種の番組はぼくのテーマへの追い風になるはずなのだが、あまり手離しで喜べない。カリスマ講義もディベート技術も本来とてもきついことを題材にしているにもかかわらず、学び手のノリがコンビニ感覚で軽々しい印象を受けることがある。


サンデル教授の投げ掛ける問いはこうだ。「暴走列車を運転するあなた。このまま進めば5人を轢き殺してしまう。だが、列車を右に逸らせば、そこにいる作業員一人は犠牲になるが5人は助かる。あなたならどうするか?」  この質問に答えはない。要するに、自ら考えることに意義がある。結論を下してその論拠を説明するトレーニングなのだ。「解答は必ずしも存在しない」のはもはや明白だから、特別に目新しい話ではない。

一部の学生の解答が紹介されたが、他にどんなものがあったのか興味津々である。便利生活で飼い慣らされたという点では日米ともに大学生に大差はないように思える。この程度の質問のある講義を絶賛するようでは、わが国の教育のありようを嘆くしかない。ぼくの私塾ですらハーバード大学よりも難しくて答えのない設問を用意している。ちなみに、暴走列車を運転するぼくは余計なことをせずに真っ直ぐに進む。線路上の5人のうちわずか一人でも暴走列車の轟音に気づくほうに期待する。

今朝の朝刊で新刊予告の広告。『デジタル教育は日本を滅ぼす』(田原総一朗)には、「便利なことが人間を豊かにすることではない」とある。その横の広告は『頭脳の散歩 デジタル教科書はいらない』(なんと田中眞紀子と外山滋比古の共著)。ぼくがこの二冊を買い求めることはないだろうが、デジタル化と便利(あるいは促成)が教育のキーワードであるのは間違いない。便利が奪ったものは何なのか? ことばの力と考える力である。この意味で、答えの定まらない問題を解くのもディベートもデジタル教育よりはすぐれた処方箋と言えるだろう。しかし、肝心要は日々の生活場面だ。不便に戻って、段取りと機転の工夫をする習慣形成こそがはじめにありきなのである。

できる人の想像力

まだ一ヵ月ほど先の仕事だが、二部構成の講演がある。第一部と第二部の講師は別、というのが通常だが、どちらもぼくが担当する。第一部がプロフェッショナル論で、第二部がマーケティング論。同一講師が別のテーマを語るケースは少ないが、これがぼくの馴染んだ欲張りパターンだ。聞く方も話す方も一テーマ4時間よりは二つのテーマを各2時間のほうが集中しやすい。別にテーマ領域の広さを自慢しているわけではない。一見異なった二つのテーマには共通のコンセプトや考え方が横たわっているものである。同日ゆえ学習の相乗効果も高い。何よりも、同額報酬で二本立てだからお得だ。

第一部のプロフェッショナル論については、ここ数年、仕事の作法やプロの仕事術、あるいは発想の達人などの名称で講演と研修をしてきた。動機はいたって素朴だ。その道の専門家はどのようにして一人前になっていくのか、ひいてはどのように学べばそのようになれるのか、その学び方にぼくごときが少しでも関与して自己訓練を手伝えないかという思いがある。NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』を見て感心することが多いが、特に番組に大きく影響を受けた結果ではない。

当然のことながら、仕事ごとにプロフェッショナルの極意や流儀は異なる。これまでに同番組が取り上げた専門家で言えば、たとえばマグロの仲買人と遭難救援隊員とでは技も道も精神も大いに違っている。おそらく一人前になるのに要する歳月も長短あるだろう。にもかかわらず、プロフェッショナルの誰もが等しく達している境地を窺い知ることはできる。共通の感覚や精神や頭脳の働きなどが一つの型として浮かび上がってくるのだ。いろんなプロフェッショナルと出会い観察し雑多に本も読んだ。そして未だ行く手に険しい道があることを自覚しつつも、少しずつ成長している自分自身の体験をもなぞっているうちに、数年前から「鍵を握っているのは想像力だ」という確信を得るようになった。


「いやいや、年季や経験や場数こそがものを言うのではないのか」という異論が立つかもしれない。しかし、よく考えてみれば、その類が高度な専門性の証になるとはかぎらない。天与の才を論うとキリがないから、同等の能力でその道に入った二人を仮定しよう。同年数で同経験を重ね同じ場数を踏んだとしても、そこにプロフェッショナル度の差が出るのはなぜか。固有の経験は、確実な積み重ねであるだけに基礎固めに力を貸すが、他方、偏ることもあるし融通性を欠くこともある。経験が未知の領域で応用力を発揮するためには、基礎的な技術が想像力と出合わねばならないだろう。

ここまでかたくなに難しく考えなくてもいい。ぼくたちは、その人のキャリアによって専門家や名人を感じることは少ないのだ。いたずらにキャリアだけを積みながら、プロフェッショナルからは程遠い凡俗はいくらでもいる。協力会社の新人が何度もミスを重ねるので一言、二言意見したら、「今後は御社にはベテランを起用しますのでご容赦ください」と謝罪されたとしよう。それであなたは諸手を挙げて小躍りするか。否である。そのベテランが「できる人」という信憑性は、年季と経験によるだけでは確約されない。

ぼくの知るプロフェッショナルたちは、決して経験に安住しないし、技量そのものにもこだわらない。彼らはほぼ共通して機転が働く。みんなよく先を読んでいる。先を読むが、ありとあらゆるシミュレーションを立てるわけではない。そんなムダをするのはアマチュアだ。プロフェッショナルは暗黙知によって要所だけを読む。結果の両極を読み、その間に起りうる状況をつぶさに想定せずとも、ものの見事に対応してみせる。それこそ想像力の手並みなのだ。プロフェッショナルはつねに期待される以上の成果を生み出す。その能力の拠り所を信念や使命感ととらえてもいいが、もっとも具体的でぼくたちが自己研鑽できそうなのが想像力だと思うのである。