文体と表記のこと

二十代の終わりに転職して数年間、その後創業してからも十年間、合わせると二十年近く国際広報に従事したことになる。日本企業の海外向けPRであり、具体的には英文の執筆・編集の仕事をしていた。英語圏出身の専門家との協同作業だが、英文スタイルや細かなルールについては意見がぶつかることが多かった。カンマを打つか打たないか、セミコロンでつなぐのか、この箇所の強調にはイタリック書体を使うのか、一文を二文にするのか……など、最終段階では単なる文字校正以上の調整作業に疲れ果てたものだ。

英語は日本語に比べて、一般的に文型が変化しにくい。中学生の頃に習った、例の五文型を思い起こせばわかる。S+VS+V+CS+V+OS+V+O+OS+V+O+Cの五つがそれである。S=主語、V=動詞、O=目的語、C=補語の四要素のすべてまたはいずれかを組み合わせるわけだが、どんな文型になろうと、主語と動詞がこの順で配列される。目的語と補語も動詞の特性に従属する。動詞が文型の構造を決定するのである。文型が五つしかないのだから、英語は数理的な構造を持つ言語と言ってもいい(と、拙著『英語は独習』でも書いた)。

シカゴマニュアル.jpgのサムネール画像例文紹介を割愛して話を進める。単文の文型なら文章は動詞によってほぼ支配されるから、極端なことを言うと、簡潔に書けば誰が書いても同じ文章になる。にもかかわらず、編集者やライターはなぜ通称『シカゴマニュアル』(The Chikago Manual of Style)という、900ページもの分厚い本を手元に置いて参照するのか。よくもここまで詳述するものだと呆れるほど細目にわたって文体や表記のありようを推奨しているのである。察しの通り、文章は単文だけで書けない。必然複文や重文も入り混じってくる。さらに、記事になれば一文だけ書いて済むことはない。段落や章立てまで考えねばならない。こうして、文体や表記の一貫性を保つために気に留めねばならないことがどんどん膨らんでいくのである。


文体や表現にもっと融通性があるはずの日本文のルールブックは、シカゴマニュアルに比べればずいぶん貧弱と言わざるをえない。一見シンプルな構造の英文に、それを著し編む上で極力準拠すべきルールがこれほど多いことに衝撃を覚えた。ぼくは話し聴くことに関してバイリンガルからはほど遠い。つまり、日本語のほうが楽であり英語のほうが苦労が多い。しかし、こと英文を書くことに関してはさほど苦労しなかった。それでも、スタイル面での推敲にはかなり時間を費やさねばならなかったし、同僚のネイティブらとああでもないこうでもないと話し合わねばならなかった。アルファベット26文字で五文型しかない言語なのに……。いや、そうであるがゆえに重箱の隅をつつく必要があるのかもしれない。

ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットが混在し、縦書きでも横書きでも紙誌面の構成ができてしまう日本文。そこに一貫性のあるルールを徹底的に適用しようと思ったら、すべての文章にひな型を用意しなければならなくなるだろう。際限などあるはずもない。ワープロの出現によって書けない漢字を変換する便利さを手に入れたが、はたしてその漢字を読者が読み判じることができるかにまで気配りせねばならない。マニュアルに基づいてそんなことをしていたら文章など書けなくなってしまうだろう。

日本語にあって英語にないものを列挙すればいくらでもある。それほど二つの言語は異なっている。とりわけ漢字とふりがなの存在が両者の間に太い一線を画する。たとえば“hippopotamus”と英語で書いて、それが読めなくても発音記号を付けることはない。日本語では「河馬」と書いて「かば」とふりがなを付けることができる。いや、本文で「かば」と表記してもいい。このとき「カバ」という選択肢もある。しかも、河馬と書いて「バカ」というルビを振る芸当までできてしまう。そう、まさにこの点こそがスタイルブックにいちいち準拠するわけにはいかず、書き手の裁量に委ねられる理由なのだ。

顰蹙を買う」とするか「ひんしゅくを買う」とするか、ちょっと斜に構えて「ヒンシュクを買う」とするか……。顰蹙などと自分が書けもしない漢字をワープロ変換ソフトに任せて知らん顔してもいいのか。時々神妙になってキーを叩けない状態に陥る。英語では知らない単語は打ち込めない。そして、自力で打ち込めるのなら、おそらく意味はわかっているはずである。ワープロ時代になって困ったことは、書き手自身が書けもせず意味も知らない表現や漢字を文章中に適当に放り込めるようになったことだ。手書きできる熟語しか使ってはいけないという制限を受けたら、現代日本人の文章はかなり幼稚に見えてくるだろう。

ところで、顰蹙は何度覚えてもすぐに忘れる。ひらがなで書くか別の用語を使うのが無難かもしれない。他に、改竄かいざんも「改ざん」でやむをえず、放擲ほうてきも時間が経つと再生不可能になる。憂鬱などはとうの昔に諦めていて、「ふさぎこむ」とか「憂う」とか「うっとうしい」などと名詞以外の品詞で表現するようにしている。

学校の国語、実社会の国語

いきなりだが、次の二つの段落にお付き合い願いたい。「次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい」という国語の問題ではないのでご安心を。

英語には、「自然」という言葉がある。ネイチュア nature がそれである。このネイチュアにあたる言葉は、日本語では「自然」という他、何も言いようがない。中国語やヨーロッパ語から借り入れたものではない、もともとの日本語をヤマト言葉と呼べば、ヤマト言葉に「自然」を求めても、それは見当たらない。何故、ヤマト言葉に「自然」が発見できないのか。

それは、古代の日本人が、「自然」を人間に対立する一つの物として、対象として捉えていなかったからであろうと思う。自分に対立する一つの物として、意識のうちに確立していなかった「自然」が、一つの名前を持たずに終わったのは当然ではなかろうか。「申す」と「言う」の観念の区別がない所では、その言葉の区別がない。「自然」が一つの対象として確立されなければ、そこにはその名前がない。

上記は大野晋『日本語の年輪』からの引用である。これらの段落の後に続く6つの段落までをテストとして出題したのが、今年の大阪府立高校の国語の入試問題だった。出題文全体を眺めて、「ほほう、中学三年生がこれを読解させられるとは、学校の国語、まずまずレベルを高く設定しているものだ」と感心した。但し、ぼくたちから見れば――表現やスタイルの好みを別とすれば――上記の大野晋の文章は論理的で明快な「標準的日本語」という見立てでなければならない。つまり、中学生なら少々苦労はしても、「標準的社会人」ならさらりと読み込んで当然のテーマと文章である。


ところで、ぼくの研修テキストも大野晋の難易度で書いているつもりなのだが、よく「難しい」と指摘される。高校入試級の国語を難解だと感じるようなら、ちょっと困った話である。ぼくの文章から寸法を測ると、少なからぬ現役の社会人たちが、大野晋の文章を難しいと感じ、取り上げられているテーマになじめなくなっていると推論できそうだ。高校か大学を離れてから「実用的な国語」に親しみすぎたせいか、安直なハウツー本ばかり読んだせいなのかは知らないが、かつて十代半ばのときに試験問題として出題された文章にアレルギー反応を見せる。興味のないテーマを疎ましい難解文として遠ざけ、「もっとやさしく、たとえば小学生新聞の記事のように書いてくれたら読んでもいい」と言いかねない。

ぼくらの大学受験時代、試験問題の花形は小林秀雄や丸山真男だった記憶がある。難しかった。何度読んでもわからなかった。設問に答えられずに半泣きになっていた。十年後に読んでも相変わらずわかりにくかった。この間、文章・テーマともに手ほどき系の本を多読していたから、国語の成長がなかったのだと思う。こんな反省から、二十年前、仕事に直結するだけの実用書を読むのをやめて、アタマを悩ませる書物や骨のある古典に転向する決心をした。するとどうだろう、しばらくすると、小林秀雄がふつうに読めるようになった。

かつて読めなかった文章が読めるというのは、実は当たり前の進化にほかならない。古語辞典片手に謎を解くように取り組んだ古典文学も、その後に学習を積み重ねたわけではないのに、辞典がなくても七、八割がた読めるようになっている。「知の年季」が入った分、ご褒美として推量も働くし文脈に分け入ることもできるようになっている。思考受容器の大きさと文章読解力はおおむね比例する。

実社会の国語にわかりやすさだけを求めるのをやめるべきである。中学生や高校生の時に格闘したはずの難文への挑戦意欲を思い出してみるべきだ。骨抜きされたわかりやすさにうんざりしようではないか。アタマを抱えもせず知的興奮もないような文章ばかりで脳を軟化させてはいけないのである。〈学校の国語>実社会の国語〉という構図は、コミュニケーションにとっても思考力にとってもきわめて危うい状況である。耳をつんざくほど警鐘を鳴らしておいてよい。