表現階段は上へと向かう

〈表現階段〉などという術語はない。ぼくの気まぐれな造語である。

あるすぐれた事物にふさわしい表現をひねり出したとする。事物がさらによくなれば、その表現よりも一段上に上がる表現が必要になる。比較級的な何か、である。そして、必然最上級を求める。しかし、事物の質がさらに良化すれば、その最上級でさえ物足りなくなる。こうして、表現階段はエンドレスに上を目指していく。
ロハスなどに顕著な近未来ライフスタイル現象の一つに「質の追求」がある。もちろん、今に始まった概念ではない。いつの時代も、昔に比べて少々手持ちに余裕ができれば、人はおおむね量の拡大から離れて質の深化へと向かうものだ。質の高いもの、つまり俗っぽく「本物」と呼ばれるものへの志向性……。本物とは何かということはさておき、そこへ向かいたがる。
デパートの地下を一周してみればよろしい。上質の~、一流の~、極上の~、~な逸品、名門の~、本場ならではの~……キリがないほど本物の仲間表現が目白押し。これ以外にも、ぼくたちにはらくしたい、自分らしくありたい、ゆったりと快適でありたいなどの生き方願望があるが、クオリティ・オブ・ライフ志向として一くくりにできるだろう。

とあるカフェに入った。ブレンドが税込280円。ご承知の通り、「ブレンド一つ」と注文すると、カウンター内の店員は即座にカップを取り出して機械にセットし、ボタンを押して「すでに出来上がっているコーヒー」を注ぐ。トレイごと受け取ったぼくはセルフでそれを運んで席につく。この店では、そのブレンドを、なんと「幻の逸品」と名付けポスターとして貼り出してある。
別の日。ブレンド料金にプラスすること20円で「ロイヤルブレンド」にグレードアップできることを知った。こちらは注文してから淹れるのである。おまけに、番号札を渡されて席に座っていれば、店員が出来立てのコーヒーを運んでくれるのである。
ブレンドが幻の逸品なのだから、ロイヤルブレンドにはどのような最上級の表現が与えられているのか……興味が湧いてきた。カウンター内の大きなメニューパネルや店内のあちこちにポスターらしきものを探してみた。だが、ロイヤルブレンドを訴求する表現らしきものは見当たらない。それはそうだろう、先に「幻の逸品」と命名してしまったら、そう簡単にそれ以上の表現は思いつくものではない。「特上・幻の逸品」など鰻丼みたいで違和感が強い。いっそのこと「幻想の逸品」にしてみるか。これも変だ。
表現階段の一段目に足を踏み入れた瞬間から、人はさらなる上の表現を目指す宿命を背負う。しかし、語彙には限度がある。表現したい気持ちが高ぶる一方で、言い表せぬもどかしさに苦悶するのだ。最近の若者たちが何にでも「めっちゃ」や「すっごく」や「超」をつけざるをえないのはこういう事情によるのだろう。

ロジカルの程度

論理的という意味と同等に「ロジカル(logical)」が使われ定着するようになった。まずロジカルシンキングが目立つが、ロジカルリスニングにロジカルライティングというのもある。ロジカルスピーキングやロジカルコミュニケーションも研修タイトルとしてよく耳にする。実際、ぼくもロジカルシンキングとロジカルコミュニケーションという名称の研修を実施するが、以前も書いたように、シンキングよりもコミュニケーションに力点を置く。

上記のカタカナで呼称される研修は、思考力と言語の認知・伝達力の強化を主たる目的としている。しかし、論理的思考が成されているかどうかを直接的に知ることはできない。「きみは論理的に考えているかい?」と尋ねて、「はい、以前に比べてより論理的に考えることができるようになりました」と答えが返ってきたから、論理的思考ができている? そんな馬鹿げたことはないわけで、彼が論理的に考えているかどうかは、少々対話をしたり問答を交わしたりして判明する。思考と言語は論理的に同期するから、だいたい言語による説明や伝達ぶりを観察すればロジカルであるかそうでないかが明らかになる。

かつて「ロジカル度テスト」なるものを実施していたが、これは純然たるお遊び。論理学習を食わず嫌いしないようにと配慮したものだった。研修の冒頭でロジカル度を自己採点して、各自の点数に苦笑いしたり胸を張ったりしてもらったまでである。言うまでもなく、ロジカルに程度などない。ロジカルかロジカルでないかのどちらかしかない。デジタル的な「10」である。「あの人は彼女よりもロジカルだ」と言えなければ、「この文章はとても論理的である」とも言えない。ロジカルに比較級も強調もない。あの人(あの文章)は論理的であるか非論理的であるかのいずれかなのだ。


ロジカルと同じように、比較級変化せず、また形容詞の修飾を受け付けないのが、固有を意味する「ユニーク(unique)」。「とてもユニーク」や「きわめて固有の」などは日常会話では当たり前になっているが、よくよく考えれば、ユニークにも程度はない。ユニークかそうでないかである。「この作品はあの作品よりもユニークだ」とつい言ってしまいそうだが、「この作品はあの作品よりも固有だ」がありえないことは何となくわかってもらえるだろう。

ロジカルを「筋が通っている」に置き換えれば、「半分筋が通っている」という状態が奇異であることがわかる。あるいは、「一部脱線したり寄り道していたりするが、おおむね筋が通っている」も矛盾を抱えている。筋が通ると断言するかぎり、横道に逸れたり途切れたりしてはいけない。筋が二本通ってもいけない。通る筋は一本のみ、しかも真っ直ぐでなければならない。これこそがロジカルの本質なのである。

繰り返すが、人は少しだけロジカルになったりだいたいロジカルになったりできない。ある言説が前提と結論という構造をもつとき、その文章は論理的か非論理的かのいずれかである。「ぼくは生卵を手にしている。床は硬い大理石である。手を高く掲げて卵を床に落とせば割れるだろう」という推論はロジカルであり蓋然性も高い。但し、ロジカルであることと蓋然性があることはイコールではない。後者は現実に起こるかどうかの話である。もしその生卵が割れなかったとしても、上で成された推論がロジカルであることに変わりはない。