石畳を歩くように

年末年始、別に慌ただしくもなかったが、気がつけば、流れに棹差すように時が過ぎていた。昨年の11月中下旬にはパリにいたのに、それが何だかはるか過去の出来事のように思えてくる。写真もろくに整理しないまま、ゆっくりと振り返る暇もなく今日に至った。

かと言って、別に重苦しい日々を送っていたわけでもない。ただ、いつになく、少々苛立つ場面に出くわす。何に対してかはよくわからないが、もどかしい。駅の階段を二段ずつ上がろうとしている割には足が上がっていないという感じ。

時間にも「ゆったり時間」と「急かされる時間」がある。おもしろいことに、前者の時ほどいい仕事が手際よくできる。後者のリズムに入ると「あれもこれも感覚」が襲ってきて、事が前に進まない。

こんな時、地を踏みしめるようにゆったりと「仕事の中を歩く」のがいい。靴底から地面の凹凸が伝わってくるように。たとえばそれが石畳なら、そこから街のメッセージを汲み取るように。歩いてこそ伝わってくるものがある。走ってばかりいては重要なものを見逃してしまう。と言うわけで、やり慣れた仕事、見慣れた光景や風情にもよく目配りして歩こうと思う。実際、昨日と一昨日はそうして街歩きでくつろいだ。

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2011年11月21日。昼前から黄昏時までブリュッセルの街をくまなく歩き続けた。車や電車やバスでは感知できない「地場」を足の裏で時々思い出す。 

流れと成り行き

流れと言えば、つい最近では「立ち合いは強く当たって、後は流れでお願いします」が傑作だった。完全なシナリオを作ると八百長がバレる。かと言って、まったくの白紙状態では想定外の変化に対応できない。というわけで、「初期設定」だけしておいて、「後は流れ」になるのだろう。ゼロの状態から流れは生まれない。最初の動きや方向性を踏まえてスムーズに流れてもらわなくては困る。

流れで行くのも様子を見るのもいいだろう。だが、往々にして、「流れでいきましょう」と発言する張本人が流れも様子も読めないから滑稽である。会合に遅れてきて、それまでの経緯がまったくわからないまま、流れに乗れていると錯覚する御仁。「ちょっと様子を見てきます」ということばなどほとんど信用できない。そもそも流れや様子という表現で場を凌ごうとする魂胆が見苦しい。

頭が状況についていけていないのに、舌だけが空回り気味に滑るアナウンサーが、びわこマラソンの実況放送の冒頭でつまらぬことを口走った。先頭集団が競技場をちょうど出たあたりで、「昨年はここで若干アクシデントがありました」と言ったのだ。当然続くはずのアクシデントの中身を待っていたら、話はそれきりで、レース実況を平然と続けている。何が若干のアクシデントなのか。みなまで言わないのなら、こんな話を持ち出す必要はなかった。同じ場所を走る選手たちを見て昨年の光景が浮かび、流れで喋った。しかし、昨年のマラソンを見ていない視聴者はその流れに乗れない。


何もかも予定通りに運ぼうとすれば、発想は硬直化するし手順はマニュアル化する。だから、流れや様子を見る余裕――あるいは経過観察――があってもいいし、成り行きを見て臨機応変に振る舞うのも悪くない。しかし、成り行きには功罪がある。臨機応変という〈功〉になればいいが、主体性の放棄という〈罪〉もある。

仕事でも生活でも一度決めたことを変更せざるをえないことがある。たまにはいいが、のべつまくなしでは主体性はおろか自分をも見失ってしまう。日々の先約や主体的な計画が、いとも簡単にふいの来客や雑用によって潰れてしまう。崩れるような意思は意思ではなかったと言わざるをえない。趣味にしてもメセナなどの企業活動にしても、やろうと決めたなら外的な変化に右往左往して断念してはいけないのである。

「忙しくて、◯◯したくてもできない」という愚痴をこぼしているうちに、人生はあっと言う間に過ぎてしまう。流れや成り行き任せは多忙の原因の一つである。そして、多忙ゆえにできなかったことは、しなくてもよかったことに違いない。やろうと思っていてやらなかったことなどは、強い意思に支えられた、真に欲することではなかったと見なすべきだろう。平然と流れに棹差す生き方を目指すなら、桁外れの才能と決断力を身につけるのが先だ。

流されてしまう時代

意思をたくましくして事に処していても、人間一人が外圧にあらがう力はたかが知れている。外圧などという物騒なことばを使ったが、別に外から圧力がかかるまでもない。ごく自然に集団や雑踏の中に佇んでいても、意思とは無関係な「自己不在感」に襲われたときには、すでに流れに棹差すままの身になっている。

メディアに取り巻かれて流され、日々の生活が文化的なトレンドに流され、そして、今いるその場で人は流されてしまう。具体的には、テレビ・新聞・インターネット・書物に向き合って自主的に情報に接しているつもりが、気がつけば、相当ぶれない人でも河童の川流れ状態に陥っている。街を歩けば、グルメにファッション、立ち並ぶ店のディスプレイに取り込まれ、固有の嗜好だと思っているものさえ、実はサブリミナルに刷り込まれていたもの。会議や集いや居酒屋でも、全体を包む雰囲気に流される。流されていることに気づくうちはまだいい。しかし、流れの中にずっといると、流れているのは岸のほうで、自分は決して流されてなどいないと錯誤する。

個性ある人間として主体的に生きようと意識している、なおかつ強い意思によって世間を知ろう、また当世の文化にも親しもう、しかも空気に左右されぬよう場に参加しようとしている。そのはずなのに、ぼくたちはいとも簡単に流されてしまっている。あ、この一週間は早かったなあ……まだ自分の仕事はほとんどできていないのに、雑用ばかりでもうこんな時間か……貴重な時間は空虚に流れ去り、印象に残っているのはやるせないゴミ時間の記憶ばかり。


流されないようにするための処方箋が「さらに意思を強くすること」しかないのであれば、もはや絶望的である。しかし、何も悲愴な面持ちで嘆き続けるだけが能ではない。無茶を承知で言うのなら、外界に向かって鎖国的に生きるか、あるいは世間やメディアから隔絶されたところに隠遁すればいいのである。そうすれば、少なくとも流されずには済むだろう。

だが、それでは社会的生活が成り立たなくなってしまう。ぼくたちは必要最小限の時事的情報を知らねばならず、さもなければ、人と交わり共同で何らかの仕事をこなしていくことはできない。たとえ鎖国・隠遁が可能だとしても、その生き方は引きこもりっぱなしのオタクと同じである。彼らが流されていないという痕跡は見当たらない。いや、実のところ、彼らの大半はゲームやインターネットや趣味の世界の中で流されてしまっている。

誰にでも効く処方箋を持ち合わせているわけではないが、ぼくはまったく悲観的ではない。抗しがたい急流にあって有用の時間のみを追わず、岸辺に上がって無用の時間に興ずればいいのではないか(無用の時間はゴミ時間ではない)。現実の情報・文化・公共の場などの意味体系から離脱して「引きこもり」、せめて一日に一時間でもいい、沈思黙考する時間を自分にプレゼントする。その一時間は外部環境の変化に一喜一憂しない時間である。世の中にわざと乗り遅れる一時間である。そういう時間を持つようになってまだ数年とは情けないが、じわじわと効いてきた気がする。ただのプラシーボ効果なのかもしれないが、かけがえのない至福の時間になりつつある。