閑古鳥がおびただしい

「閑古鳥」とはカッコウのことらしいが、言い得て妙である。さびれている様子がにじみ出ている。貧乏神と同じく閑古鳥は招かれざる客なので、そこかしこで毎日毎日啼かれては困る。ところが、この閑古鳥、最近目立って繁殖しているようなのだ。ぼくの住むマンション近くにはどこからか追いやられてきたムクドリが群れているが、オフィス街に棲息しはじめた閑古鳥の数はムクドリの比ではない。

週末に大阪の目ぼしい繁華街を散策し、デパートや専門店にも立ち寄って人出や賑わいをチェックする。不景気や金融不安などどこ吹く風、どんどん皆さん買っているし飲食している。心斎橋の有名ブランド店の一つなど、百均ショップではないかと見間違うくらい混んでいた。ニーズ(必要性)を満たすために消費しているとはとても思えない。緊急性などまったくないウォンツ(願望)がコンスピキュアス・コンサンプション(見せびらかし・目立ちたがりの消費)へと加速している。

このように景気をまったく気にせずにせっせと消費できる人々がいつの時代にもいる。どのくらいの人口比なのかは知るすべもないが、ぼくの周辺では五人に一人というところか。この20%の人たちは必ずしもセレブばかりではない。収入の多少や肩書きの上下や消費額の大小とは無関係に存在する。誰一人として景気と無縁に暮らせる者などいないはずなのだが、不思議なことに、この連中は景気に鈍感であり続けることができる。五人のうち景気に敏感な残りの四人はどうしているのだろう。迫り来る不況の影に怯えながら財布を握りしめタンスの引き出しを押さえているのだろうか。


一昨日の夜8時頃、自宅へ帰る途中にオフィス街の飲食店を外から覗き見して歩いた。想像以上に閑古鳥の占拠地帯が広がっていた。しゃぶしゃぶの店、中華料理店、イタリアン、フレンチ、寿司割烹など軒並みチェックしたが、惨憺たる状況だった。オフィス近辺で午後8時前後に客がいないようならその日はほぼアウトだ。飲食業ではないものの、「明日はわが身か……」と現実を直視する。

夏以降、続々と店が閉店に追い込まれて、わずか一ヵ月ほどすると別のオーナーがそっくり新装してオープンする。最初の数ヵ月は新しさ・珍しさゆえ、口コミで人が人を呼んでくれる。だが、昔に比べて選択肢が圧倒的に多い現在、その店でなければならない理由などそう多くはない。週一回や月二回と足を運ぶには他店と一線を画する決定的な差異が必要だ。そんな特徴的な店にはめったに出くわさない。

夜、どこかで飲食する。どなたにも行きつけの店があるだろう。しかし、そこが満員であれば別の店でも代用がきく場合が多いのだ。ぼくなど常連になるのを好まないし、常連ゆえに求められる立ち居振る舞いが面倒なので、行きつけの店でもせいぜい年に6回まで。二、三ヵ月空くことになるから、次回行くときには新参者。ゆえにめったなことでは顔なじみにまでは至らない。


他方、閑古鳥とは無縁の一握りのエリート店がある。「行列の並ぶ店」とか「なかなか予約の取れない店」と聞いて、さあどうする? ここが食にまつわる消費行動の岐路である。

「一度でいいから、何時間並んでも行って見たいし半年先でも予約しておきたい」と思う。実はこんな人たちは少数派なのだが、マスコミがこぞって取り上げるために、「世の中、そんな連中が多いんだなあ」と思い込まされるのである。どんなにうまい焼鳥屋であっても、2時間も3時間も待つことなんかない。近場を探せば、遜色なくてリーズナブルな店が必ずあるものだ。どんなに有名でミシュランガイドで取り上げられていようとも、予約してから半年間も待ち続けることなどない。

ぼくの店選びはとても簡単である。いい店なら客を待たせてはいけない。これが顧客満足というものだろう。「行列ができる」というのは世間の評価であって、ぼく自身にとってはまったくありがたくない現象である。さっきまで並んでいた客が入店する時、後ろに列をつくっている客たちに投げかける、あの「勝ち誇ったような一瞥」の嫌らしさはどうだ。「予約のむずかしい店」など論外である。そんな店はぼくの中では存在しない。その店をなかったことにしておいて何一つ困ることなどない。

弱者発想のぼくとしては、人気店の動向にはあまり関心がない。それよりも、オフィス街でランチを提供してくれている、無名だが一工夫があってリーズナブルなお店を潰しては気の毒だと思う。だから、グルメガイドに頼って遠方まで出掛けず、近くの店を食べ歩きしてみる。気に入った店にはちょくちょく通ってあげる。こうして一羽でも閑古鳥を減らしてあげたい。

とか何とかキレイごとを言いながら、ぼく自身、最近めっきり外食機会が減った。年齢のせいだけではないだろう。わざわざそこに行かねばならないという情熱も薄らぎ、魅了してやまない特徴的な店も少なくなった。何よりも、忍び寄る不機嫌な時代の空気に知らず知らずのうちに備えているのかもしれない。