遅れてやってくる珠玉の素材

研修用のテキストが完成すると一安心する。ただ、編集エネルギーの余燼が十分に冷めていないので、その後もテーマに関連した本をちらほらと読む。不思議なもので、そうしているとテキストで用いたものよりも「魅力的で適切な素材」を見つけてしまうのだ。その素材を「足す」だけで済むならテキストを手直しするが、構成自体に地殻変動をもたらすようなら諦めるしかない。しかし、見過ごすのはもったいないという気持から、口頭で紹介するかパワーポイントに組み入れたりすることになる。

私塾の第4講のテーマ『行動規範のメンテナンス〈東洋の知〉』は8月上旬にテキストを脱稿している。ところで、このテーマを選んだのはほかでもない。十代の終わりから漢詩に親しんできて、その流れからか、老子、孔子、孟子、禅、さらに釈尊、それに空海や親鸞などの有名どころをざっと勉強したことがあった。二十代前半に職場の先輩であったM氏が偶然その方面に明るかったから、よく教わったり意見を交わしたりもした。東洋の知への関心にはそんな背景がある。

さて、そのテキストが仕上がってから、講義のためではなく興味本位で関連書を読んでいた。すると、「あ、これ、忘れていた」という好素材がどんどん出てくるのである。行動規範と東洋の知を結んだのはわれながらあっぱれと自画自賛したくなるほど、ブッダのことばや禅語録には行動規範のヒントが溢れている。しかも、そうした珠玉の素材は、もう一歩踏み込まねばなかなか姿を現してくれないものなのだ。


読み残して放っておいた本の後半に出てきたのが、「無可無不可かもなくふかもなく」。今でこそ「良くも悪くもなく、まあまあ」というように使うが、元来は先入観で物事を決めつけないという意味。ぼくたちは十分に検証もせずに事柄や状況の良し悪しを判断する。多分に主観的、と言うか、独我的に。一見良さそうに見えるあれも、どう見ても悪そうに見えるこれも、ひとまず白紙の状態で眺めてみなさい。これが無可無不可の諭すところで、つまるところ、極に偏らずに中道の精神状態を保つべしということになる。

次に見つけたのが、道元禅師の「他是不吾たはこれわれにあらず」。他人がしたことや他人にしてもらったことは、自分でしたことではないという意味である。あなたの腹ペコを満たすのはあなた自身であって、誰かに食べてもらってもあなたは満腹しない。仕事も習慣もすべてそう。自分の仕事を誰かに代わってもらえば、その仕事は片付いたことにはなる。しかし、決して自分でしたことにはなっていない。他の誰でもない、この自分がやらねばならない、よしやるぞと決めたら自分でやり切るしかないという教えである。たしかに、今やるべきことを一番よく心得ているのは、この自分である。ふ~む。耳が痛い。

以上、偉そうに書き連ねたが、見て思い出したまでで、かつて頭に入れたはずのこれらのことばはすっかり記憶から抜け落ちている。再会すれば思い出す、しかし自然流では思い出せない。そんな知識やことばがいったいどれほど眠っていることか。実にもったいない。だからこそ頻繁な再読なのだろう。私塾や研修のテキストを書いて編集するのはとても疲れるが、そういう仕事に恵まれているからこそ、忘れた旧聞に再び巡り合える。実にありがたい。