古(いにしえ)のことばの指針

半月前の金沢、私塾開講の日の朝にぶらりと武家屋敷界隈まで歩いた。二年ぶりである。足軽の旧屋敷を利用した足軽資料館に入ってみた。マンション住まいのぼくから見れば、下級武士の家とは思えぬ、ちょうどいい感じの広さ、間取りである。一室に展示してある『武道初心集』に目が止まる。これは享保年間(17161736年)に編まれた武士のための心得を記したものだ。次のように書いてあった。

乱世の武士の無筆文盲なるには一通りの申しわけもこれあり候。治世の武士の無筆文盲の申しわけは立ちかね申す義に候。

文中に「文盲」の一語がある。差別語だと騒ぐ、口うるさい向きがいるかもしれないが、昔の話だ、意に介さないでおく。さて、その無筆文盲はふつう「無学文盲」とされ、今風に言い換えれば「リテラシーのないこと」を意味する。つまり、読み書きのできない無学のことだ。「戦や騒乱続きの秩序なき時代なら、武士が無学であっても一応の言い訳が成り立つだろうが、何事もなく穏やかな時代であれば、武士の無学には弁解は許されるものではない」ほどの意味である。

現在の金融不安やデフレ経済の生活に及ぼす影響は軽視できないが、雑兵として出陣せねばならなかった時世は現況の比ではなかっただろう。したがって、今も一種の乱世だからリテラシー不足もやむなしとは言い訳できぬ。いや、当時とは違い、有事・平時を問わず、ぼくたちには時間があるのだ。常日頃よく筆を用い文を読むことを怠っていい理由はない。


金沢の一週間後に、毎日新聞に緒方洪庵の『扶氏医戒之略』からの一文が紹介されていた。私塾の構想のためにずいぶん前に洪庵の適塾の研究をしていたことがあって、記憶が甦ってきた。扶氏とはフーフェランド(17641836)というドイツ人の医学者で、洪庵は彼の『医学必携』オランダ語版を抄訳したのである。

医の世に生活するは人の為のみ、己が為にあらずといふことを其業の本旨とす。安逸を思わず、名利を顧みず、唯己を捨てて人を救わんことを希ふべし。人の生命を保全し、人の疾病を復治し、人の患苦を寛解するの外他事あるものにあらず。

医術の心得ではあるが、当世の医者のみならず、政治家、経営者、教育関係者など要職にあるプロフェッショナルは肝に銘じておくべきだろう。すべての職業に当てはまるよう超訳ししてみよう。

仕事人の本分は自分のためではなく人のためであり、気楽になろうとか名誉や利を求めようなどと考えず、ひたすら無私の精神で人の役に立とうと願いなさい。人の立場を守り、困っていることに手を差し伸べ問題を解決するべく一途に努めなさい。

江戸時代の読み書きの教えも仁愛の精神も色褪せず、ぶれもしていない。現代口語でよく似たことを諭すお偉方は五万といるが、当の本人たちがリテラシー向上に励み、仁愛を実践しているようには見えてこない。心構えであれ良識であれ、今という時代はだいぶ常軌を逸してしまったかのようである。