食べる=生きる

食 無題.jpgここにある8冊と他に数冊をまとめてデスクの下に置いてある。ここ一ヵ月ほど、息抜きに適当な一冊を手に取り、適当にページを繰り、好奇心のおもむくままに読んでいる。食べることに関する話に興味が尽きることはない。

自分のことを食道楽やグルメとは思わないが、食べることはかなり好きである。だから自制を忘れると、またたく間に3キログラムほど増えてしまう。昨年11月下旬にバルセロナとパリに滞在した折、高級ではないが、日本だとばかばかしいほど高値で買う気もしない肉や魚貝やチーズを好きなだけ買って食べた。朝も昼も夜も度を忘れて貪ったが、体調はすこぶる順調であった。しかし、帰国後もその習慣が3月頃まで続き体重がいっこうに減らない。そのことを大いに反省した。偉ぶるつもりはないが、反省するとすぐに生活習慣を変革するのがぼくの流儀だ。
ちゃんと仕事をしたご褒美としてご馳走を食べているので、無為徒食などとは思わない。しかし、食べているという現実が生きているという実感になかなかつながらないのも事実である。日々流されると、食べることと生きることが切り離されていく。食べるために生きているのか、それとも生きるために食べているのか……こんなとりとめのない問いすらしなくなる。

人は食べるために生きているのではなく、生きるために食べているのでもない。「食べることと生きることは手段と目的の関係ではないのだ」と何度も自分に言い聞かせる。これでは不十分なので、「食べるとは生きることである」と極論することにした。そして、ついでに「○○とは生きること」という命題と、その逆の「生きるとは○○」を標榜することにした。「食べるとは生きること」と、その逆の「生きるとは食べること」は、ぼくの内では矛盾しない。
さらについでに、「コミュニケーションは生きること」と「生きるとはコミュニケーションすること」や、「考えるとは生きること」と「生きるとは考えること」にまで敷衍してみた。するとどうだろう、日々の食べる、聴く話す(読む書く)、考えるという営みが生命の環境適応行動としてとらえることができるようになったのである。遅まきながら。
食べることに話を戻す。人類の歴史を仮に500万年とすれば、最初の499万年間、人は自然に存在するものを口に入れてきた。自然を切り取って食べることと生きることは完全にイコールだった。手段も目的もなければ、いずれが他方の上位などということもなかった。しかし、農耕や牧畜などの「非自然的食糧調達」の方法を身につけたこの直近の1万年で、食べることが生きることを凌いでしまったのである。だからと言って、逆転させることはなく、日々「食べる=生きる」という意識を新たにするだけで、忘れかけた幸福感が甦ってくる。

生活と仕事の密接な関係

理論武装できるほどの論拠を持ち合わせていないが、生活の現実はおおむね仕事ぶりに反映されると考えている。ダラダラと生きていたらダラダラと仕事をしてしまう。だらしない日常はだらしない仕事に直結する。無為徒食の日々を送っていれば、ろくな仕事をしないで給料をもらうことに平気になる。明けても暮れても遊んでいる者は仕事すらしないだろうし、流されるような惰性的生き様は、左から右へとただ流すだけの仕事に直結するのではないか。

生活を置き去り等閑なおざりにしたままで、いい仕事ができるはずがないのである。休日に運動し過ぎて身体を壊す。かと思えば、別の日には昼過ぎまで爆睡。アフターファイブは元気溌剌と友人と暴飲暴食、翌日はぼんやり頭で遅々として進まぬ仕事に向き合っている。暮らしぶりを見たらぞっとする、しかし表向きだけプロフェッショナルを装っている人間は結構いるものだ。「遊びは芸の肥やし」などと、まったく実証性のない自己弁護でふんぞり返っている芸能人もそこらじゅうにいる。二十代半ばで放蕩三昧から足をきっぱり洗って聖職に就いたのはアッシジのフランチェスコだ。悪しきライフスタイルとの決別は、一気にやり遂げねばならない。凡人にはなかなかむずかしいことだが、実は、少しずつ変革するほうがもっとむずかしいのである。

やわらかい発想を身につける方法やアイデア脳の育て方について、講演もしているし相談もよく受ける。ぼく自身、決して威張れるような日常生活を送っているわけではないが、〈クオリティオブライフ〉と〈クオリティオブビジネス〉を一致させるべく努力はしている。ふだんぼんやり暮らしているくせに、仕事の場だけ上手に頭を使おうというのは虫のいい話なのである。相談してきた人には「恥じないようなライフスタイルへと向かいなさい」と言う。素直な人は「わかりました。明日からそうします」と決意を示すが、すぐさま「ダメ! 今すぐ!」と追い打ちをかける。今日できることを明日に先延ばしするメリットなどどこにもない。決断と行動は同時でなければ意味がない。


様子を見てから、状況に照らしながら、相手の出方次第で、諸般の動向を睨んで、などはすべてペンディング動作にほかならない。「アメリカの動きを見て……」などと言っているから先手で意思決定もできず政策も打ち出せないのである。自分が自分でどうするかをなかなか決めない。状況や条件ばかり気にして、自発的かつ主体的に動かない。条件にあまり縛られない日常生活でこんな調子なら、本舞台の仕事では身動き一つ取れなくなるのが当たり前だ。

杜撰なライフスタイルは脳を怠惰にする。怠惰な脳は意思決定を躊躇する。反応的にしか働かなくなるのである。頭を使う仕事がはかどらなくなるとどうなるか。人は考えなくてもいい作業ばかりに目を向け、無機的な時間に異様な執着を示し始める。その最たる作業が会議だろう。「昼過ぎて まだ朝礼中 あの会社」という川柳を冗談で作ったことがあるが、あながち非現実的なジョークでもない。緊張感のない生活価値観は必ず仕事に影響を及ぼす。顧客と無縁な作業――社内の人事考課、業務レポート、朝礼、その他諸々の管理業務――ばかりがどんどん増えていく。

かつて公私混同するなとよく言われた。その通りである。しかし、精神性や脳の働きに公私の区別がつくはずもない。気持ちも頭もゆるゆるの生活者が、家を出て会社に着くまでの間にものの見事にきびきびとした仕事人に変身できるわけがないのである。〈私〉の姿をいくら包み隠そうとしても、〈公〉の場で仕事の出来や姿勢に本性が露呈してしまうのだ。ビジネススキルの前にヒューマンスキルがあり、さらにヒューマンスキルの前に胸を張れるようなライフスタイルを築かねばならない。要するに、「生活下手は仕事下手」と言いたかったのだが、はたして大勢の人々に当てはまるだろうか。

仕事上の能力開発のアドバイスをするために、生活態度や日々の暮らしぶりにまで介入して口はばったいことを言わねばならなくなった。必ずしも歓迎材料ではないが、日常の習慣形成を棚上げしたままでは、ぼく自身の教育へのコミットメントが完結しないのである。こんな姿勢を示すと、都合の悪い人が去ってしまうことになりかねないが、それもやむをえない。

ミスとグズ、または失敗と怠惰

先週の水曜日、塾生Sさんの会社の全社会議の第三部として『広告の話』について講演した。若い社員さんらは仕事のありように気づいてくれたようだ。決してやさしい話ではなかったが、紹介した事例と仕事線上の課題や願望との波長が合ったと思われる。ぼくの出番はそれだけだったので、第一部と第二部での話は聞いていない。懇親会の席で見せてもらった会議資料をちらっと見れば、そこに次の一文があった。社是である。

「ミスには寛容に、怠慢には厳しさを。慣れ合いのない優しさ、責め心のない厳しさ」

生意気なことを言うようだが、ぼくにとっては目新しいものではない。しかし、このメッセージにとても素直に感応できた。なぜなら、そのように生きてきたし、怠慢(そして、その日常化した惰性の延長としての無為徒食と放蕩三昧)を、自他ともに戒めてきたからである。天賦の才があるわけではないし、油断しているとついつい怠け心に襲われる弱さを自覚しているから、たとえ使い古されたことばである「努力」や「精進」をも盾にして怠慢にあらがうしかないと考えてきた。

かつてエドワード・デ・ボノが水平思考(やわらかい発想)のヒントの一つとして、「ありとあらゆる要素を考える」を掲げた。まったくその通りで重要なことなのだが、これはぼくたちにとっては至難の業だ。あらかじめありとあらゆる要素をシミュレーションできれば、たしかにミスは大いに減るだろう。しかし、賢人が何もかも見据えた上でなおも失敗を犯してしまう現実を見れば、凡人の仕事が日常茶飯事的にミスと隣り合わせにあることは容易に想像できる。いくら注意しても「ミスは起こるもの」なのである。

だからこそ、ミスには寛容でなければならないのだ。但し、己のミスの言い訳のために他人のミスに寛容であろうとするのは自己保身である。ミスに対して寛容であるというのは、自他を問わず、仕事上のミスの蓋然性に潔くなれという意味でなければならない。リスク管理に意を凝らしても起こるミス、あるいは複雑な外的要因によって起こるミスに対しては、月並みだが、再発を防ぐ処方しかない。その処方をアタマと身体に叩き込むしかない。


経験を積み熟練度を増すにつれてミスは徐々に減るもので、看過してもいいほど小さくなってくる。しかし、最後の最後まで残るミスの原因は油断であり、その油断を許してしまう慢心と怠惰に遡る。慢心と怠惰は人間の本性の一部だから、つねに見張っていなければならないのだ。だから「怠慢には厳しさを」なのである。ぼくの知るかぎり、怠慢から派生するミスを相変わらず繰り返す人間は、本人の自力による救済は不可能である。誰かが手を差し伸べてやるしかない。とても時間がかかるし徒労に終わる可能性も高いが、放置すれば組織悪や社会悪としてはびこってしまう。

社是の後半の「慣れ合いのない優しさ」と聞けば、「親しき仲にも礼儀あり」を連想する。フレンドリーであることはいいことである。しかし、ついつい甘味成分が過多になって関係がべたついてしまう。お互い相手を理解し優しい眼差しを向けるのはいいが、そこにはさらりとした抑制が働いていなければならない。Sさんとぼくは長い付き合いで信頼関係も強いが、見えない一線を互いに暗黙のうちに了解している。

最後の「責め心のない厳しさ」は人への対峙のあり方にかかわる。自分はその人をどうしてあげたいのか、なのだ。立ち直れないほどこてんぱんにやり込める厳しさも世間にはある。叱責のための叱責、逃げ場のない窮鼠状態への追い込み。困ったことに、自分に甘い指導者ほどが強く相手を強く責める。だが、指導者側の鬱憤発散のための厳しさでは話にならないのだ。

ぼくはと言えば、議論になればきわめて厳しくからい。相手を妥協せずに論破し、矛盾点を徹底的に追及する。理由は明快で、一段でも高みへと成長してほしいからにほかならない。どうでもいい相手に厳しさなど不用だから、議論に引きずり込むまでもないのである。

他者の成長

あくまでも他者の成長についての観察と実感である。ぼく自身の成長についてはひとまず括弧の中に入れた。また、他者の成長を二人称として見るのではなく、三人称複数として広角的に眺望してみた。つまり、他者を間近にクローズアップするのではなく、少し距離を置いて親近感を薄めてみたのである。観察であって、冷めた傍観ではない。実感であって、ふざけた評論ではない。

十数年間付き合っていても、他人の気持などなかなかわからない。自我認識でさえ危なっかしいのに、他我の考えに想像を馳せるのは至難の業だ。しかし、樹木の根や幹の内部が見えなくても、葉の生い茂りぶりと果実の色づきや膨らみを観察できるように、発言や行動はしっかりと目に見える。内面的な概念や思考が言語に依存するというソシュール的視点に立てば、言動を中心とした変化――時に成長、時に退行――は知の変化そのものを意味する。

最盛期には、年に数千人の受講生や聴講生に出合った。ほとんどの人たちとの関係は一期一会で終わる。今も縁が続いている人たちは数百人ほどいるが、毎月二、三度会う親しい付き合いから年賀状社交に至るまで、関係密度はさまざまである。職業柄、他者を観察する機会に恵まれているから、十人十色は肌で感じてきたし個性の千差万別もよく承知しているつもりだ。人の心はなかなか掴めないが、言動に表れる成長に関してはかなり精度の高い通信簿をつけることができるはずである。

ぼくは自他ともに認める歯に衣着せぬ性格の持ち主である。毒舌家と呼ばれることもある。ほんとうに成長している人物には「たいへんよく成長しました」と最大級の褒めことばを贈る。だが、いくら率直なぼくでも面と向かって「きみは相変わらずだね」とか「ほとんど成長していないね」とは言いにくい。ゆえに、成長していない人の前で成長を話題にすることはなく、黙っているか、さもなくば「がんばりましょう」でお茶を濁す。裏返せば、「成長したね」とか「このあたりがよくなったね」などとぼくが言わない時は、「成長が見られない」と内心つぶやいているのに等しい。


たった一日、場合によってはほんの一時間でも、人は成長できるものである。決して極論ではない。他方、どんなに刻苦精励しようとも、何年経ってもまったく成長しない――少なくともそのように見える――ケースもある。周囲を見渡してみる。伸びている人とそうでない人がいる。昨年はよく成長したが、今年になって減速している人もいる。五年よくて五年悪ければ相殺されるから、結局は十年間成長しなかったことになる。三十歳だからまだまだ先があると思っていても、四十歳になってもほとんど成長していなかったということはよくある。もちろん本人は自分の成長をこのように自覚してはいない。誰もが自分は成長していると自惚れるものだ。

ところで、体力と精神力が低下すると知力が翳り始める。年齢と成長曲線の相関? たしかに加齢による心身劣化は不可避だ。しかし、加齢よりもむしろ不健康な習慣のほうが知の成長・維持を阻害する。不健康状態が長く続くと新しいことが面倒になり、これまでやってきた旧習に安住して凌ごうとする。うまく凌げればいいが、そうはいかない。毎日少しずつ人生の終着点に近づいているぼくたちだ、無策なら可能性の芽も日々摘み取られていくばかり。

成長には心身の新陳代謝、すなわち新しい習慣形成(あるいは古い習慣の打破)が欠かせない。そして、習慣形成に大いに関わるのが時間の密度なのである。成長は時間尺度によって端的に数値化できる。これまで二日要していた仕事を一日で片付けることができれば成長である。無用の用にもならないゴミ時間を一日2時間減らせば成長につながる。わかりきっていることを何度も何度も学び直すのもゴミ時間。その時間を未知のテーマを考える時間に回す。それが成長だ。つまらない人間とつまらない話をして過ごすつまらない飲食のゴミ時間を減らす。要するに、無為徒食をやめ、束の間の自己満足をやめる。失った貴重な時間を誰も損失補填してくれない。

ぼくの立ち位置からいろんな他者が眺望できる。ある人の過去と現在を比較できるし、その人と別の人の比較もできる。このままいくと彼は行き詰まるぞ……あの人はいいリズムになってきた……数時間前に会ったときから変わったなあ……いつになったらこの道がいつか来た道だということがわかるのだろう……こんなことが手に取るように観察でき実感できる。時間の密度と価値を高める生き方をしている人は伸びている。もちろん、ぼくも誰かによって成長通信簿を付けられているのを承知している。