「無用の用」の逆襲

「無用の用」は気に入っている表現の一つ。有用だと思うものだけを残してその他の無用をすべて捨ててしまうと、残した有用なもの自体が意味を持たなくなってしまう。有用なものを生かすために諸々の無用があるわけだ。「有用=主役、無用=脇役」という位置取りだが、主役と脇役はいとも簡単に逆転してしまうことがある。たとえば鶏卵。ある料理では黄身が必要で白身は不要、別の料理では白身のみ有用で黄身はいらない。まあ、タマゴの場合は安価だし、黄身も白身もどっちみち使い道はあるから心配無用だが……。

蒲鉾は板に乗っかっていて、当然板から外して食べる。板なんぞ食べないから作る時点で無用だと言うなかれ。板にへばりついているから蒲鉾なのである。無用な穴をふさいで全体をすり身にしてみたら、たしかにずっしりと重みのある棒状の練り物ができるだろうが、それはもはや竹輪ではない。穴が貫通しているから竹輪なのである。レンコンしかり。そもそも穴がなければレンコンという根菜は存在しない。穴が無用だからどうしても埋めたいと思うのなら、からしレンコンにして食べてもらうしかない。

こんなことを言い出すとキリがないほど無用は氾濫しているし、それらの無用と神妙に向き合えば、存在したり発生したりしているかぎり、そこに有用を陰ながら支える用があることにも気づく。身近にあって、本来無用のものが有用として供されている代表格はオカラかもしれない。あるいは、日々の新聞と一緒にやってくるチラシの類。片面印刷のチラシは裏面をメモにできるという点で無用の用を果たしている。他方、内容にまったく興味のない、両面印刷されたチラシは役立たずか。そうともかぎらない。紙ヒコーキや折り紙になってくれるかもしれないし、何かを包むのに使われているかもしれない。


無用の用が価値ある有用を逆転していることさえある。すでに別のオーナーに代替わりして別の料理店になっているが、二年前まで肉料理を出していた鉄板焼きの店があった。夜に人が入らないので店じまいしたようだが、ランチタイムはそこそこ賑わっていた。正確な値段を覚えていないが、たぶんステーキ定食が1200円前後、切り落しの焼肉定食が800円前後だったと思う。いつ行っても、誰もが切り落しを注文するばかりで、ステーキを食べている人を見たことがない。ちなみに切り落しというのは、もともと演芸場や劇場の最前列の、大衆向けの安い席のことだった。舞台の一部を「切り落して」設けたのである。これが転じて「上等ではなくて半端なもの」を意味するようになった。

さて、ブロック状のロース肉の有用なステーキ部分以外の肉の端っこを切り落す。むろん本体よりも切り落しのほうが量は少ない。しかし、これだけ切り落しに注文が殺到すると、ステーキ用の上等な聖域をも侵さねばならない。そう、無用な切り落しでは足りないから、ステーキ部分を削ぎ落としてまで使うのである。切り落しが主役を脅かす結果、もはや主役に出番はない。ブロックの塊すべてが切り落される。有用あっての無用だったはずの切り落しが堂々たる有用の任を担っているではないか。

ものの端っことは何だろう。それは、いらないものか、美しくないものか、商品価値の低いものか。かつてはそうだったかもしれないが、食べてみれば同じ。切り落しが400円も安いのならそちらに触手は動く。ぼくなどとうの昔にカステラの切り落しに開眼した。濃厚な甘みを好むなら「辺境のカステラ」のほうが絶対の買いなのである。ぶっきらぼうに袋に放り込まれているくらい何ということはない。ところで、割れおかきというのもあるが、よく売れるからといって、わざと割っているわけではあるまい。いや、肉の切り落し同様に、無用の用が逆襲している可能性もあるだろうか。