「考えないこと」を考える

知らないことを知る――これが昨日のテーマであった。考えてみれば、当たり前のことである。何も知らないまま生を受けてからずっとそうしてきた。知らないことは無限だから、生あるかぎり知るという行為に出番はある。けれども、人はわがままだ。「知らないことをわざわざ知ろうとしなくても、知っていることだけで十分ではないか。それで差し迫って困ることもなかろう」という具合に考えて、知ることを面倒だと思うようになる。

これと同じことが「考える」ということにも起こる。考えられる範囲でのみ考える、複雑なこと・むずかしいこと・邪魔くさいことは考えない。いつも考えている手順・枠組み・パターンで考える。つまり、「考えないこと」を考えようとしなくなるのである。

「考えられないこと」と言っているのではない。「考えられないこと」はすぐには考えられるようにはならない。考えた時点ですでに「考えられないこと」ではないからだ。ぼくが意味しているのは、「ふだん考えないこと」である。あるいは「めったに考えないこと」である。これが簡単なようで簡単ではない。よく自分の思考状況を振り返ってみればわかる。いつものテーマを常習的な言語体系と慣れ親しんだ道筋で考えている。テーマが新しいものに変わっても、思考の方法はあまり変わることはない。


たいていの場合、「考える」は「流用する」や「なぞる」や「調べる」などと同義の内容になっている。特に茫洋と構えて考え事をしていると、ほとんど考え事に値しない時間だけが過ぎていく。新しいアイデアが出ないのは、ある種の考え方の上塗りをしているからであって、その結果出てくるのは既存知識に一本毛の生えた程度のものにすぎない。

「物事を自力で考えよ」など、まったくその通りと共感する。この「自力」というところがたいせつだ。他人や世間がどうのこうのと気にせずに、従来とはまったく異なる手順・枠組み・パターンに挑戦すること――これが自力である。

たとえば「よく考えよ」と言われると、たいてい深く考えようとする。一つのことを掘り下げて考える癖が出る。あるいは熟考してしまう。しかし、その一つのことについては、いつもよく考えてきたのではないか。それ以上ほんとうに考えることができるのか。ぼくたちは行き詰まりを避けようとして、「いつもの考え方→いつもの熟考」を繰り返しているだけではないのか。

もっとも手っ取り早く「考えないことを考える」には、深堀などせずに、見晴しをよくして広く考えればいい。そうすれば、テーマも思考パターンも枠の外に出る。必然容易に手に負えなくなる。これが「考えないことを考える」出発点になる。つまり、「いつもの考え方→行き詰まり→別の考え方」を強制するのである。いつもの考え方で生まれるようなアイデアが楽しいか。それでプロフェッショナルなのか。そもそもそのアイデアを求めてくれる人が世間にいるのか。

ほとんどの仕事は「考えること」を基本とし必要とする。行き詰まりの傷が思考の勲章であることを忘れてはならない。