語句の断章(11) 観照

何となくわかるので、わかったつもりになって何十年も放っておいた単語、それが「観照かんしょう」である。

現象学の哲学者がよく使う。美術の本にも出てくるし仏教関係の本でも何度か見ている。一番理解に苦しんだのが、『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』の一節、「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」だ。「観察して照らしている」から、本質をよく捉えることだろうくらいの理解で済ませていた。

よくよく考えたら、ダ・ヴィンチ自身が観照という日本語を使ったわけではない。だから翻訳文の理解に悩むくらいなら、原典にあたるのがいい。まさか原本が手元にあるはずがないので、英語版の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』(Notebooks of Leonardo da Vinci)を調べたら、「観照する」に相当する用語が“contemplate”となっていた。「凝視する」とか「注意深く観察する」という意味だ。英和辞典には「熟視」と訳しているのもある。

この動詞は現代イタリア語では“contemplare”で、辞書にはちゃんと「観照する」という訳も掲げられている。「瞑想する」という意味もあるが、これはダ・ヴィンチの手記の一節の訳としては当てはまらない。そして、この動詞からラテン語に遡ってみると、「吉凶を占う場所で十分に観察する」というのが原義であることがわかった。吉凶を占う場所とは「天空が開けている場所」を指す。

するとどうだろう、「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」と言ったダ・ヴィンチの真意が何となく理解できるではないか。感性の外とは地上ではなく天空のことなのに違いない。「理性は感性の限界を補う俯瞰や見晴らしをもたらす」というような意味のように思われる。

なお、ぼくはことば遊びをしているだけであって、衒学的追究をしているのではない。念のために付け加えておくと、このように執拗に単語の意味を追い求めても文章の意味がわかる保証などないのである。個々の単語が文意を担うのはたしかだが、それ以上に文章や段落が単語の意味を変容させる。これはまるで個人(単語)と組織(文章)の関係にそっくりだ。