その一言はいるのか?

あの一言は余計だったと思うことがある。他方、もう一言添えるべきだったと後悔することもある。料理の匙加減に似て、あと一言の有無の判断はやさしくない。悩んで悩んで結論が出なかったらどうするか。この場合は、お節介精神を発揮して一言を加えるようにしている。不足よりは過剰のほうが責任を取れそうな気がするし、経験的にもおおむねそうだった。

この前の日曜日、小ぢんまりとしたショッピングモールでエレベーターを利用した。貼紙がしてあった。「改修(調査)のため、屋上は17:00に閉まります」というお知らせの文面である。8Fから1Fへ降りるまでの間、ことば遣いをずっと睨んでいた。この文章を書いた人、どうして「改修」の後に括弧して「調査」としたのか、えらく気になってきたのである。

「改修のため」では何かしっくりこなかったのだろう。かと言って、「調査のため」でもズレているような気がしたのだろう。書いた本人には「何のために屋上を17:00に閉めるのか」がはっきりわかっている。そして、おそらく「改修のため」と書いて、説明不足が気になったに違いない。「改修は改修なんだけれど、主として調査を主眼としているんだよなあ」と思い直して、調査という言い換えを括弧付きで補足した――こう推理する。


しかし、このお知らせを読む人たちにとっては、改修イコール調査ではない。いや、それどころか、改修なら工事含みだし、調査なら点検はあっても工事はないだろうから、「改修(調査)」には対立感も漂って、どうもしっくりこない。

こんな文面になった経緯を読み解いているうちに、この文章が「屋上が閉まる理由」を「屋上が閉まる時間」以上に過剰に意識していることに気づいた。理由などどうでもよかった。「屋上は17:00に閉まります」。これでいいのである。ぶっきらぼうと感じるのなら「◯月◯日まで」と添えればよろしい。これでお知らせの役目は果たせている。

以前、オフィス近くの居酒屋のドアに「店主腰痛のため、しばらく休業します」という貼紙があった。「店主腰痛」は余計な一言である。一部の常連にとってメッセージ性が高いのかもしれないが、一般的には休業の理由などよりも「いつまで休むのか」のほうが意味があるはずだ。迷ったらお節介の一言というぼくのセオリーが崩れるのは、その一言が自己弁護や言い訳に用いられる場合のようである。

ところで、その居酒屋、ずっと休業が続き、やがて別の店に変わった。気の毒なことに、店主の腰痛は治らなかった様子である。

はい、いいえ、わかりません

きわめて限られた場面での話である。どんな場面かと言うと、仕事の現場や会議での意見のやりとりである。たとえば誰かが何かを主張する。その主張へはおおむね「同意する」「同意しかねる」「何とも言えない」の三つのリアクションがある。あるいは、誰かがその主張に対して「~ですか?」と質問する。この場合も、「はい」「いいえ」「わかりません」の三つの応答が考えられる。話をわかりやすくするため、後者の応答パターンを取り上げる。

「あなたは仕事をしていますか?」への応答は「はい」か「いいえ」のどちらかである。「わかりません」は考えにくい。「シゴト? ワカリマセン」と外国人が答えるケースは無きにしもあらずだが、質問の意図がわかる人なら「はい」か「いいえ」で答える。「わかりません」が返されるのは、「あなたは仕事が好きですか?」の場合。「仕事はしているが、好きかどうかがわからない」または「仕事をしたことはないので、好きかどうかがわからない」のなら、「わかりません」と答える以外にない。

問いかけが、たとえば「以上の私の提案に対して、賛否と理由を聞かせてほしい」という、少々議論含みになってはじめて三つの反応の可能性が生まれる。そして、答える人は「はい」「いいえ」「わかりません」と方向性の表札を示し、しかるのちに理由を述べる。意見交換のあとに表札を変えてもいいが、理由も明かさないまま表札を「いいえ」から「はい」へ、「はい」から「いいえ」へところころと変えるのはよろしくない。なお、「わかりません」には理由はいらないという意見もあるが、そうではない。「わからない」だけで済ますのは「関与しない」と受け取られかねない。「わからない」と答えても、「何がわからないか」を説明する責任を負うべきだろう。


現時点でわからないことは、どうあがいてもいかんともしがたい。だから、「わからないこと」を素直に「わかりません」と答えるのを躊躇することはない。むしろ、下手に見栄を張ったり背伸びしたりしてまで「はい」や「いいえ」で答えてしまうと逆に問題を残してしまう。但し、何かにつけて「わかりません」を繰り返していると、「なんだ、こいつは! バカの一つ覚えみたいに……」ということになり、頼りないプロフェッショナルとの烙印を押されてしまう。もちろん、意見のやりとりを前提とする会議のメンバーとしての資格もやがて失うことになるだろう。

誰だって、プロフェッショナル度が高まるにつれ、「はい」か「いいえ」かの二者択一のきつい局面で決断することを求められるようになる。かと言って、毅然とした空気を全身に漲らせて「はい! いいえ!」と力むこともない。決死の覚悟になるから、意見撤回できなくなるのだ。軽やかに「はい」または「いいえ」を明示して、思うところを素直に語ればいいのである。  

三つのリアクションの他に、実はもう一つ、どうしようもない、論外のリアクションがある。それは「無言」だ。無言は「いいえのひねくれた変形」。黙秘も法律上はれっきとした権利だが、共通感覚的には印象が悪い。ぼくの経験では、ダンマリを決め込む人間のホンネは「ノー」である。ホンネが「イエス」ならば、ふつうは「はい」と表明するものである。もちろんイエスマンもいるし、儀礼的な「うなずき」もあるが、黙っている者はそのいずれでもない、「陰のあるレジスタント」だ。なお、複数回繰り返す「はい」と「わかりました」には注意が必要だ。ともに「承っておきます」というニュアンスに近い。 

理由づけできること、できないこと

199519日のノートに、あるテレビ番組の話を書いている。ゲストは画家のヒロ・ヤマガタだった。「ヒロさんは、なぜこのような色づかいをされるのですか?」と聞き手が尋ねた。

自慢するほどの腕ではないが、絵を描くのが趣味の一つであるぼくからするときわめてナンセンスな質問である。この問いに対して、ヒロ・ヤマガタはしばし戸惑ってから、こう返した。

「そんなこと考えたこともない。芸術家なんて誰もそんなこと考えて描いてはいないんじゃないか」。案の定である。「なぜ納豆が好きなんですか?」と聞かれて、「好きだからです」以外にどう答えるべきなのか。「あのネバネバ感がたまらないんです」という答えが欲しいのか。よしんばその答えを引き出したからといって、その理由にたまげたり感心していったいどうなるものでもないだろう。

納豆が好きなのも、ある種の色づかいをするのも、もはや習性というものである。いまさら意識の世界に引っ張り出されてしかるべき理由を述べよと迫られても困るのだ。

誰もかれもが哲学や思想があって何かをしているのではない。何かしていることにつねに理由があるわけでもない。説明できるとかできないのほかに、説明して意味があることと意味がないこともある。ヒロ・ヤマガタがその気になれば、「そうですね、この種の色づかいのきっかけは……」と説明しようと思えばできたかもしれない。しかし、仮に説明したとしても聞き手のアナウンサー、あるいはカメラの向こう側の視聴者にどれほどの意味や発見があるというのだ。

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「沢尻さ~ん、ハワイはどうでしたぁ~?」と尋ねて、芸能レポーターはどんな答えを引き出したいのか。あんたが聞かれたら、立ち止まってゆっくり説明するとでも言うのか。ありえない。質問を無視して通り過ぎるのみである。万に一つ、「よかったです」と返事してもらって狂喜乱舞するはずもない。それは想定内の回答に他ならない。

ヒーローインタビューのあの切なさ、気まずさ、凍りつく空気はどうだ。「いいホームランでした!」とマイクを向けられて、無言でうなずくか「はい」か「ありがとうございます」以外に何があるのか。「ツーアウト、二塁、1点リードされているあの場面。どんな気持でバッターボックスに入りましたか?」 この種のインタビューはいい加減にしてほしい。このくだらぬ問いが、「何とかしようと思っていました」「来た球を思い切って打つつもりでした」などの陳腐な受け答えを招いているのである。

ある種の意思決定が下された事柄については理由が存在するだろう。その理由が予想しにくい類ならば聞けばいい。また、尋ねるだけの価値もあるかもしれない。しかし、何でもかんでも安易に「なぜ」と連発するのは聞き手として失格である。インタビューで5W1Hを押さえるのは、新聞記事を書くのと同様に常套手段である。だが、そのWのうち、Why(なぜ)とHow(どのように)はここぞというときの伝家の宝刀でなければならないのだ。