小さな創造性が役に立つ

幸か不幸か、野心的な商品開発や歴史に残る大発明を目指している人が周りにはいない。少々変わっている人はいるが、たかが知れている。過去もそうだった。したがって、ぼくは狂気と紙一重のようなクリエーターを間近に見たことはないのである。

ヒット商品、大いに結構である。画期的な技術革新、これまた何のケチもつけられぬ。けれども、「千三せんみつ」への飽くなき挑戦のための創造性は、発明発見を職業にしていないぼくたちとは無縁である。一般的な社会人が千回の仕事や作業のうち997回も失敗していたらたちまちクビになる。つまり、ぼくたちが求める創造性というのは、少し段取をよくしたり、小さなアイデアをどんどん出したり、以前よくミスしていたことをうまくできるようになるなど、総じて仕事を一工夫できることに役立つものなのだ。

「企画技法」の研修の中で、ぼくは発想についても言及する。もちろん大発明や偉大なる創造のための発想の話ではない。これまでいろんな発想法を学び試してきたが、だいたいにおいて「固定観念崩し」か「異種情報結び」のいずれかを基本とする。もし小さな創造性だけでも身につけたいのなら、ほとんど正解はこの二つで決まり、と言っても過言ではない。


「固定観念崩し」とは、新しい発想を妨げている「内なる法則」を取り除くこと。長年使ってきた思考回路は多かれ少なかれ、一定の法則でパターン化されている。パターン化されているから、ある意味では便利なのである。いちいち立ち止まらなくても自動的に考えることができるからだ。しかし、これでは再生的思考止まりで、新しい工夫への扉は開かない。

内なる法則は、「一対一」 だけを許容する窮屈な法則だ。一つの刺激に対して決まりきった一つの反応をすることで、「山」に対していつも「川」と反応するようなもの。さらに、二つの概念が密接にくっついて、たとえば「朝食―トースト」、「式次第の冒頭―来賓挨拶」、「外国人―アメリカ人」のように習慣や連想が固定してしまうのもこの法則の仕業だ。概念、連想などが固定するから「固定観念」。

特別な訓練は必要ではない。「一対一」を「一対多」に変えるよう意識すればいいのだ。情報やことばの一つの刺激から複数のことを導くようにする。情報なら少なくとも二通りに解釈し、ことばなら三つ以上に言い換えてみるなど。複数解釈や言い換えは「かくあらねばならない」と強迫されているマインドを「かくありたい」にシフトしてくれる。

本来なら無関係であったり別ジャンルに属している情報どうしを無理やりくっつけてみる。これが「異種情報結び」だ。遊び半分から偶然おもしろいアイデアが浮かんだりする。その昔、おにぎりの中に入っている具は昆布、かつお、梅干が定番だった。今ではバリエーションは豊富である。おにぎりをメシ、ライス、白ご飯、おむすびと呼び換えてみると、お見合い相手の情報も広がる。

セレンディピティがやって来る

辞書の話題から書き始めた1212日のブログ。その中で刑事コロンボの例文を紹介した。昔はテレビのドラマを欠かさずに観ていたが、コロンボの話に触れたのは何年ぶりかである。四日後、コロンボ役男優ピーター・フォークが認知症になっていることをAP通信が報じた。

これなど、点と点の同種情報が結ばれた例である。ブログの記事は自発性の情報、AP通信は外部からやってきた情報。後者を見落としていたら、ブログでのコロンボは孤立した一つの点情報で終わる。たまたま新聞記事を見つけたので、四日前のブログと結びつく。但し、このように情報どうしが偶然のごとく対角線で結ばれることのほうが稀だ。情報でもテーマでも強く意識していないと、関連する情報をいとも簡単に見過ごしてしまう。情報行動は点で終わることが圧倒的に多く、めったに線にはなってくれない。対角線がどんどんできるとき、アタマはよくひらめき冴えを増す。

同種情報のほうが異種情報よりもくっつきやすいのは当然だ。「類は友を呼ぶ」の諺通り。しかし、しっかりと意識のアンテナを立てていると、アタマは「不在なもの、欠落しているもの」にも注意を払うようになる。本来ワンセットになるべきなのに、片割れがない場合などがそうだ。たとえば、ネクタイの情報に出会うと、その直後にワイシャツの情報に目配りしやすくなる。見えているのは山椒だけだが、この時点で「うな重」への無意識がスタンバイする。

さらに、ひらめき脳が全開してくると、まったく無関係な情報どうしの間に新しい脈絡や関係性が見い出せ、両者を強引に結び付けてみると想像以上にすんなりまとまったりする。


もっとすごいのは、特に探していたわけでもないのに、ふと思いがけないアイデアや発見に辿り着く不思議の作用である。これが、最近よく耳にするようになった〈セレンディピティ〉だ。いろんな日本語訳があるが、偶然と察知力を包括する「偶察力」が定着しつつある。このことばを知ってから最初に読んだのが、『偶然からモノを見つけだす能力――「セレンディピティ」の活かし方』(澤泉重一著)だ。

この本の随所で、自分自身の潜在的な知識がむくむくと目を覚ます体験をする。たとえば、ノートにメモしたもののすでに忘れてしまっていた「シンクロニシティ(共時性)」に出会う。そして、「時を同じくして因果関係のない複数の意味あることが発生する現象」についての知識が顕在化した。さらに、たとえばイタリアの作家ウンベルト・エーコの見解「異なる文化のところにセレンディピティが育ちやすい」が紹介されている箇所。ぼくはその一週間前に当時独習していたイタリア語の教本の中で、このウンベルト・エーコを紹介するコラムを読んでいた。


ある点に別の点が重なろうとしている偶然に気づくのは、意識が鋭敏になっている証。点と点が同質であれ異質であれ、頻繁にこんな体験をするときは自惚れ気味に波に乗っていくのがいい。願ってもみなかった予期せぬご褒美とまではいかなくとも、僥倖に巡り合うための初期条件にはなってくれるかもしれない。まもなくクリスマス。プレゼント選びに疲れきった大人たちに、セレンディピティという贈り物が届くことを切に願う。

アイデアが浮かぶ時

「アイデアはいつどこからやって来るかわからない」と教えられたジャックは、その夜アパートのドアも窓も全開にして眠った。アイデアはやって来なかったが、泥棒に侵入されて家財道具一式を持ち出された。ジャックは悟った。「いつどこからやって来るかわからないのはアイデアではなく泥棒だ。アイデアはどこからもやって来ない。アイデアは自分のアタマの中で生まれるんだ。」

アイデアは誰かに授けられたり教えられたりするものではない。アイデアの種になるヒントや情報は外部にあるかもしれないが、実を結ぶのはアタマの中である。アイデアと相性のよい動詞に「ひらめく、浮かぶ、生まれる、湧く」などがある。いずれも、自分のアタマの中で起こることを想定している。アイデアを「天啓」と見る人もいるが、そんな他力本願ではジャックの二の舞を踏んでしまう。


デスクに向かい深呼吸をして「さあ、今日は考えるぞ!」 あるいは、ノートと筆記具を携えてカフェに入り「ようし、ゆっくり構想を練るぞ!」 時と場所を変え、ノートや紙の種類を変え、筆記具をいくつか揃え、ポストイットまで備えても、アイデアは出ないときには出ない。準備万端、「さあ」とか「ようし」と気合いを入れれば入れるほど、ひらめかない。出てくるのはすでに承知している凡庸な事柄ばかりで、何度も何度も同じことを反芻して数時間が経ってしまう。

ところが、本をニ、三冊買ったあとぶらぶら歩いていると、どんどんアイデアが浮かんできたりする。まったく構えずにコーヒーを飲んでいるときにも同じような体験をする。だが、そんなときにかぎって手元にはペンもメモ帳もない。必死になってアイデアを記憶にとどめるが、記録までに時間差があると大半のアイデアはすでに揮発している。

意識を強くすると浮かばず、意識をしないと浮かぶ。なるほどアイデアは「気まぐれ」だ。しかし、気まぐれなのはアイデアではなく自分のアタマのほうなのである。

ノートと筆記具を用意して身構えた時点で、既存の発想回路と情報群がスタンバイする。アタマは情報どうしを組み合わせようと働き始めるが、意識できる範囲内の「必然や収束」に向かってしまう。これとは逆に、特にねらいもなくぼんやりしているときには、ふだん気にとめない情報が入ってきたりアタマの検索も知らず知らずのうちに広範囲に及んだりする。つまり、「偶然と拡散」の機会が増える。

アイデアは情報の組み合わせだ。その組み合わせが目新しくて従来の着眼・着想と異なっていれば、「いいアイデア」ということになる。考えても考えてもアイデアが出ないのは、同種情報群の中をまさぐっているからである。新しさのためには異種情報との出会いが不可欠。だから場を変えたり、自分のテーマのジャンル外に目配りすることが意味をもつ。

ぼくはノートにいろんなことを書くが、アイデアの原始メモはカフェのナプキンであったり箸袋であったり本のカバーであったりすることが多い。つまり、身構えていないときほどアイデアが湧く。というわけで、最近はノートを持たずに外出する。ボールペン一本さえあれば、紙は行く先々で何とかなるものだ。